富山の路面電車
久しぶりに富山市へいってきました。高校生以来35年ぶり。
目的はほかにありましたが、「富山ライトレール」も乗ってきました。
家からは、車で3時間半。実は高岡市まではよく行ったことがありました。神通川を渡って富山市へ行ったのは初めてです。
ライトレール終点付近にある「岩瀬カナル会館」で昼食をとりました。
白えびが有名とかで「白えび定食」を頂きました。
35年前は高岡駅前から加越能鉄道で越ノ潟まで乗車、渡し舟で対岸まで渡って新港東口という駅から今はなき富山地鉄射水線にのって、市内線に乗り入れて富山駅前まで乗車しました。
デ5000型という平凡なハイステップの電車が走っていました。
小学館「私鉄大百科」より 当時の富山地鉄 市電は環状線になっていません。
それから何年かたち、衰退する方向へ向かっていた富山の私鉄ですが、方向転換したようです。JR富山港線を第3セクターにして路面電車化。「富山ライトレール」として、駅前付近を路面化しました。富山地鉄富山市内線も、富山駅へ線路を引き込んでいます。また路線図のように途切れていた環状線も単線ですが、復活しました。やがてはライトレールと市内線の相互乗り入れも実現します。
「蓮町(はすまち)」電停からライトレールに乗車しました。
富山北口で終点です。
T100型(サントラム)
地鉄側富山駅の現在。北陸新幹線の高架下です。やがては壁の向こう側のライトレールとつながります。
市内でデ7000型を見かけました。30年前のカラーで、懐かしかったです。
富山市は、鉄道を中心とした街づくりをしようとしています。他の都市ではみられませんが、ある意味 地方都市の今後の姿であるかもしれません。日本の地方都市づくりは、クルマ中心の街づくりでした。いままではマイカーを持てる人がおおかったので、郊外にショッピングセンターをつくるなどそれでよかったのですが、今後は少子高齢化社会です。高齢者にとって、マイカーを維持することはかなりの負担になってゆきます。その点、電車やバスが走っている街は、マイカーを持たなくてもよい、交通事故や家計の負担が減るので、これはよい傾向だと思います。
富山市が成功すれば、これに倣う都市が現れるかもしれません。
ある意味、試金石な取り組みといえます。
えちぜん鉄道の生い立ち (その4 えちぜん鉄道の誕生と再生)
1.えちぜん鉄道の誕生
京福電鉄福井支社は、いったん全線を廃止して、2002年(平成14年)県と沿線自治体が出資する第3セクターの会社えちぜん鉄道を作り、2003年(平成15年)資産を京福から引き継ぎました。加えて国交省からの「安全確保に関する事業改善命令」に必要な工事も実施することになりました。(ただし、収支の見込みが立たない永平寺口-永平寺間は、引き継がれず廃線になりました。)
2003年(平成15年)7月19日 永平寺口-福井-西長田が部分開通しました。8月に三国港まで、10月には全線開通しました。一旦廃線になった路線が復活する、あまりない出来事でした。
越前本線は勝山永平寺線、三国線は三国芦原線と改称されました。
2.えちぜん鉄道の取り組み
開業に先立ち、最初に行ったのは、国土交通省に申請する運賃を京福のときより値下げしました。京福時代には「運賃が高い」と言う批判が多く寄せられたからです。
1日乗車券も1000円から800円に値下げされました。永平寺への足がなくなったことにもあります。
また、新たな取り組みとしては「アテンダント」の採用です。これは旅客専務車掌にあたるものです。これはえちぜん鉄道の施設が、ほとんど京福電鉄からのものでしたので、最近のバリアフリーに対応できません。施設を改修すればよいのですが、多くあるので、改修費用がかかります。その代わりソフトウェアの観点から改善することにしたようです。
アテンダントは高齢者が多く利用する昼間の時間帯に乗務して、「乗降介助」や「乗車券販売」を行うものです。全国で始めての試みでした。開業当初は、乗客にも理解されず、アテンダントの試行錯誤が続きました。やがてその役割が理解され、また遠方からの乗客の観光案内も行うようになり、その存在はアテンダントの著書「ローカル線ガールズ」で全国に知れることになり、大成功を収めます。やがて各地でアテンダントが生まれることになります。
アテンダントに続く試みは「えち鉄サポーター」の募集です。えち鉄の課題は開業後10年間で、経営を軌道に乗せることでした。沿線自治体の補助は10年でしたので、この間に地元の利用客(定期乗車)以外に定期外乗車を増やすことが課題でした。
サポーターになることで、乗車券の割引が受けられたり、協賛店の割引が受けられました。協賛店を探すことでまた新たな観光スポットを見つけたり等で、沿線外の乗客のリピーターが増えてゆきます。
えち鉄サポーターやアテンダントの努力で地元や大阪、名古屋からの観光客が増えて、リピーターも増えてゆきました。収支の面から見れば、えち鉄後は、定期外収入が定期収入を上まるようになりました。これも珍しいことです。
(えち鉄サポーターは小冊子を持ち、大抵えち鉄や沿線の観光に精通しているので、乗車券の発券はしませんが、アテンダントの代わりにもなります。昼間に乗車しているときは気持ちよく居眠りしています。? アテンダントが乗車しない時間帯に、「にせアテンダント」として活動することになります??かな)
また当初は京福と同じ、つりかけ駆動で老朽化していた電車も、愛知環状鉄道から電車を譲り受けることになります。Mc6001、Mc6101で1両単位で走行する現在のえちぜん鉄道の主力です。転入に際し、片運転台のものは、もう片方にも運転台を取り付けました。その他ワンマン機器の取り付けの改造を名鉄住商工業(現在は解散)で実施しました。中古車ですが、カルダン駆動、空気ばね台車で最近の電車と遜色はありません。乗りごごちは良く、座っていると眠くなる電車です。また最近はJR東海から2両固定編成のMc7000を6編成作りました。(阪神車輌メンテナンス、大阪車輌工業等で実施)ただし譲り受けたのは車体と、台車くらいで走行機器は最近はやりのインバータ化、回生ブレーキを装備する。元の電車とは全く別物の電車になりました。
「えちぜん鉄道の生い立ち」はこれで終わりにします。お疲れ様でした。
<参考文献>
鉄道ピクトリアル No.461 中部・北陸地方のローカル私鉄
鉄道ピクトリアル No.573 北陸本線
<おまけ>
えちぜん鉄道になって、乗車券のうちそれまで残っていた硬券はなくなってしまいました。しかしアテンダントさんが車内で乗車補充券を発行するようになりました。
フリーきっぷの場合は、特に必要ないのですが、記念にするにはちょうどいいかもしれません。写真のように手書きです。(最近の補充券はプリンタで感熱紙印字するようになって味気ないですが)
(これは開業時のもの)
これはあくまで仮想ですが、福井鉄道との相互乗り入れ、Mc7000型の導入などは、将来への布石ではないかと考えます。いずれも現状から見れば過剰な投資に見えます。ですが、北陸新幹線の開業を考えたときに、石川県と違い、在来線の強化は避けられません。 スピードアップや昇圧を考えたときに手を打っていたのでは遅いかもしれません。今も大事ですが、「将来をどうするか」も大事です。福井の私鉄は守りから攻めの体勢に変化しているようです。
<なかなか手に入らない一本義グラス 勝山駅で置いてくれないかな>
えちぜん鉄道の生い立ち(その3 京福電鉄の繁栄と衰退)
1.戦後の災禍と復興
福井市は空襲からいち早く復興しました。
しかし1948年(昭和23年)6月28日 丸岡を震源として福井大地震が起きました。
各地で断層が発生するほどの震源が浅い大規模な地震で、鉄道もほぼ全線、線路が歪む、鉄橋が落ちる。列車が脱線、転覆する被害が発生しました。空襲よりも、地震の被害のほうが大きかったくらいです。また復旧途中の翌7月、追い打ちをかけるように集中豪雨が発生し、九頭竜川が決壊、多数の罹災者が発生しました。
度重なる被害にも屈せず、京福電鉄は復旧していきました。電車も不足したため東急電鉄から電車を購入します。1949年(昭和24年)には日立製作所製の電気機関車テキ521、テキ522が登場しました。特に越前本線の大野口への輸送に活躍します。
写真がテキ521で奥に見えるのが522です。凸型の電気機関車です。貨物輸送廃止後は専ら冬季の除雪輸送に使われ、えちぜん鉄道に引き継がれてからはテキ改めML521+522と永久連結されて使われています。
また電車も新車の割り当てがありました。運輸省規格型電車といい、大まかな仕様を運輸省で決めて作られた電車です。ホデハ1001(モハ1001-1003)といい18mの電車で、類似のものが名古屋鉄道3800型です。大型の電車でしたので、旅客の多い三国線に投入されました。
昭和20年後半から30年代にかけて、京福電鉄は黄金時代を迎えます。道路はありましたが、未舗装でしたので、鉄道が主な輸送手段でした。バスやトラックは駅までの補助的な輸送手段でした。また九頭竜川の開発の輸送も担うことになります。
1957年(昭和32年)から翌年にかけてこれも日本車輌で、新しい電車が登場しました。(ただし電気部品は在来車のものを流用しました。これが後に災いとなります。)
モハ241,251型で日本車輌が当時地方私鉄向けに製作した電車です。17mの電車で勝山-大野間に存在した、小さな下荒井トンネルを通ることのできる電車でした。
2.自動車社会の進展と京福電鉄の衰退
1965年(昭和40年代)に入ると、バス、トラックの増加により、旅客、貨物が減少し。旅客、貨物の輸送も減り始めました。1968年(昭和43年)に丸岡線が廃線されました。1969年(昭和44年)永平寺線の金津-東古市(永平寺口)間が廃線。
1975年(昭和50年)には越前本線の勝山-京福大野間が廃線になりました。これはトラック輸送に加え、福井から大野まで国鉄越美北線が開通したことのよるものでした。 その後も貨物輸送が廃止され、マイカーが増加して行き、収支は悪化してゆきました。1980年代、京福電鉄は福井支社の路線全線を廃止する方針にします。老朽化した電車の更新は、阪神や南海電鉄からの中古車で補いました。1990年、福井県からの働きかけで、運行のための補助金が交付されるようになりました。電車も新しく作られました。
写真の電車がこの時作られたモハ5001型(現Mc5000)です。武庫川車輌(現 阪神車輌メンテナンス)で2両作られました。足回りは豊橋鉄道を流用。恐竜が描かれていました。
福井支社も乗客誘致のため土曜休日用の1日乗車券を発売しました。当時は永平寺線と永平寺への京福バスが利用でき1000円でした。これで観光客などが少し増えました。
3.京福電鉄の廃止
ところが2000年(平成12年)12月 永平寺線の電車がブレーキの故障のため停車できず、越前本線の電車と正面衝突する事故が起こりました。事故原因は空気ブレーキが1系統のみで、ブレーキロッドが折れたことでした。この事故は運行というより、ブレーキの整備ミスによるものでした。気の毒に、運転手は亡くなりました。
翌2001年(平成13年)6月 越前本線 保田-発坂間で2度目の正面衝突事故が起きました。*1 今度は信号の見落としによるもので、当時ATS等の安全装置が設置されていないことのよるものでした。この事故で新車だったモハ5002が廃車になりました。
国土交通省は京福電鉄に対し、鉄道の運行停止、バス代行を命じ「安全確保に関する事業改善命令」が京福電鉄に出されました。これはATSの設置等で、これには60億円以上の費用が必要でした。京福電鉄としても費用の捻出については株主の了解は得られない事情がありました。ついに京福電鉄は福井支社の鉄道事業を廃止することにしました。
ところが、京福電車が走らなくなったその年の冬、福井市内は降雪のある日は、終日道路が大渋滞を起こしました。代行バスも役に立たちません。特に道路事情が悪い勝井地区は大混乱になりました。一方同じ地域を走る福井鉄道沿線では、この問題は起こりませんでした。この結果、福井の積雪時の交通問題が深刻であることがわかり、経営だけでは計れない鉄道の必要性がわかってきました。沿線では電車復活の運動が盛んになりました。
*1 ATSがない場合、安全のため単線ではスタフ閉塞を併用する。路線の行き違い区間ごとに、閉塞区間を設け、区間を走るときはその区間のスタフをもって走る。これをリレーのように行き違い区間で走ってきた列車の区間を受け取り、自分が走ってきた区間のスタフを相手の列車に受け渡して走ってゆく。最も原始的な方法であるが、逆にいえば該当区間のスタフがないと、絶対に走ることができない。低速な路線向きであるが、信号のみの単線の路線では、よく併用される。
えちぜん鉄道の生い立ち (その2 電鉄ネットワークの完成)
1.坂井平野の鉄道網の完成
越前電気鉄道の成功は他の町にも鉄道を建設することになります。1924年(大正14年)永平寺鉄道によって永平寺口-永平寺間が開業します。1929年(昭和4年)国鉄の金津-本丸岡-永平寺口が開通し、永平寺鉄道の全区間が開通します。1931年(昭和6年)には丸岡鉄道が本丸岡-国鉄の丸岡-西長田間が開業します。
京都電燈は次に三国へ路線を延ばします。今度は三国芦原電鉄という会社を作り、1928年(昭和3年)福井口-芦原(現あわらゆのまち)間が開業。翌年三国まで延伸します。また越前電気鉄道が1929年(昭和4年)福井駅への乗り入れが完成しました。福井には、永平寺鉄道、また三国芦原電鉄が乗り入れて来るようになり、福井口-福井間は複線化されます。1931年(昭和6年)には丸岡鉄道が西長田駅に接続します。1932年(昭和7年)には三国 - 東尋坊口が開通します。これで、芦原-三国間は国鉄三国線と平行することになりました。こうして昭和初期には、大野盆地と坂井平野に電鉄網が完成することになります。
2.丸窓電車の里
昭和3-5年にかけて、越前電気鉄道に10両以上、永平寺鉄道に6両、三国芦原電鉄10両の通称「丸窓電車」が登場します。「丸窓電車」とは写真のように戸袋の窓が楕円形の形になっていて、大正―昭和初期の電車によく見られたデザインです。昭和に入ると、それまで輸入していた電車の電気部品が国産化できるようになりました。車体も全部木造から、外板を鋼板とする半鋼製車に変化します。丸窓電車は電気部品は東洋電機製、車体と組み立ては日本車輌が行いました。車体長15m 中型車です。全国の地方私鉄に導入されました。この電車を導入した鉄道は旅客が増加した鉄道です。また性能も安定しました。
写真は長野の上田交通に導入された同形です。ヘッドライトも最初は運転台下でしたが屋根近くに移し変えられました。
また当初は写真のように車体下にトラス棒がありました。これは木造車特有の車体のたわみを調節するものでした。しかし半鋼性車体になるとたわみの調節は不要になり、撤去されました。
丸窓はやがて板でふさがれたり、普通の四角の窓に変えられましたが、その活躍は昭和50年代まで続きます。
3.戦時体制と京福電気鉄道の誕生
太平洋戦争が始まり、統制経済が進む中、京都電燈も配電統制令によって、鉄道会社と電力部門が分割されます。電力部門は、新たに編成された、関西電力と北陸電力へ移管されました。1942年(昭和17年)鉄道部門は京都に本社を持つ京福電気鉄道となり、その福井支社となりました。こうして、京都電燈は解散しました。京福電鉄は永平寺鉄道などを吸収して、福武電鉄を除き、京福電鉄の路線となりました。
また資材の不足を補うため、不要な路線、あるいは観光地への路線は撤去されました。三国-東尋坊口は廃止されました。国鉄三国線も不要とされ、撤去されました。
ただし、三国-三国港は残され、電化されて京福電鉄が運行することになりした。
貨物輸送は年を追うごとに伸びていきましたが、保線や整備が遅れ、機関車が不足していきました。電車が貨物を引くことも珍しくありませんでした。
1945年(昭和20年)福井市が空襲を受けます。施設、車両も被害をうけ、復旧も進まず、8月に戦争が終わりました。
えちぜん鉄道の生い立ち (その1 越前電気鉄道)
1.北陸本線の開業
えちぜん鉄道の生い立ちは、北陸本線の歴史に関わってきます。明治時代、鉄道の必要性は旅客より貨物でした。鉄道が開通することで、それまで牛や馬を使ってきた陸上輸送が飛躍的に発展しました。
まず日本海側の海運を東海道側に運ぶ鶴賀-長浜間の鉄道が1882年(明治15年)に開通します。130年以上も前のことで、日本で最初に鉄道が開通してから10年後のことです。福井に鉄道を引くことは、必然的に山を乗り越えていく必要がありました。鶴賀-長浜間も急坂やトンネルの掘削に時間がかかりました。鶴賀から福井への道も杉津峠を越えていかなければなりませんでした。福井まで開通したのは1896年(明治29年)のことです。翌年には石川県の小松まで開通しています。また、新たに完成した三国港から貨物輸送をするため、1913年(大正2年)金津駅から三国港まで三国線が開通します。
鉄道が開通した地域は、物流が飛躍的に促進され産業が盛んになりました。一方鉄道から外れた地域は時代のながれから取り残され、衰退していきます。産業振興に、鉄道は不可欠な存在となり、各地で鉄道ブームが起こります。
明治期、機織業が盛んになった勝山、大野もその1つで、鉄道が開通した福井までの鉄道建設を計画します。しかし大野盆地は標高200mであり、鉄道を敷くとなると最高40パーミルの勾配が存在することが分かり、北陸本線の最勾配が25パーミルであることを考えると、仮に開通しても運行の見通しが立たず、鉄道を敷くのは断念していました。
2.電車による電気鉄道の開業-越前電気鉄道
1888年(明治21年)アメリカのエジソンの助手だったスプレーグが「電車システム」を開発しました。
これは架線からトロリーポールで集電して多段スイッチで抵抗制御して速度を調節し、台車に吊り下げた電動機(モータ)を回転するもので、その後100年以上使われました。この「スプレーグ電車」を当時訪米中であった東京電燈の社長たちが興味を持ち、購入しました。
1890年(明治23年)の第2回内国勧業博覧会のとき会場となった上野公園で5月4日から一時試験運転を行いました。スプレーグ電車は当時、市街地の交通の主役であった馬車鉄道に比べ、速度も速く機動性があり都市交通の新しい主役と期待されます。
電車の最初の実用化は東京ではなく京都電燈が行いました。1895年(明治28年)鉄道会社として京都電気鉄道を作り、京都市内を走りました。開業時の電車は愛知県の明治村に動態保存され、今も乗車することができます。
次のアドレスを参照してください。
http://www.meijimura.com/enjoy/experience/vehicle/02.html
電車の制御器はイギリスEE(English Electric)社製 台車、モータはブリル社製のものを使用し、車体と組み立ては梅鉢鉄工場(現東急車輛)でした。電気部品は輸入して、車体と組み立てを国内メーカーで行う形は大正末期まで続くことになります。
京都電燈は1898年(明治31年)福井支社を設置します。九頭竜川で当時の先端技術である水力発電を行うのが目的でした。明治末期、幾つかの水力発電所が完成し、送電を沿岸の町へ開始しました。すでに京都で電気鉄道のノウハウを持っていた京都電燈に対し、福井県は「建設予算を回すので、福井から大野まで鉄道を敷いてほしい」と持ちかけます。電気鉄道は電力の安定した供給先であるので、京都電燈もこれに応じました。1912年(明治45年)信越本線の横川-軽井沢間が電化されSLでは困難だった40パーミルの勾配も電気運転で解決することがわかりました。この時はドイツのアルゲマイネ社+エスリンゲン社が製作したEC40型電気機関車を輸入しました。出力420kwでこれが日本初の電気機関車です。
1915年(大正3年)新福井-勝山-大野口間が越前電気鉄道によって開通しました。
このときに発電所から送られてきた交流の電気を直流に変換して電車へ送電する鉄道用の変電所ができました。その1つが、前回紹介した、京都電燈古市変電所です。
開業時は電車、電気機関車、客車、貨車が用意されました。電車は京都電鉄の開業と同じ型のもの。電気機関車は後に出てくるテキ6型と同じ小型のものでした。電気機関車は客車、貨車を引きましたが、足りないときは電車も貨車を引いたようです。
開業時に復元された勝山駅
開通当時、大野口から福井口までは2時間半かかっていました。それでも、それまで牛や馬で運んでいた人や荷物が、短時間で福井まで運べるようになり、旅客や貨物は次第に増えてゆきました。
このときに使用された電気機関車が現在も勝山駅に動態保存されています。
3.テキ6について
電気機関車テキ6
写真の機関車がテキ6といいます。かわいらしいもので日本で2番目の電気機関車です(写真は福井口にいたときのもの)電動貨車に似ていますが、車内のあちこちに走行機器があります。大正9年製。制御器はアメリカGE(General Electric)社製K-39型 台車、モータは65kwが2個でブリル社製 車体と組み立ては梅鉢鉄工場製でした。テキ1-5も存在したようですが、わかっているのはテキ4,5です。この後テキ11まで続きますが、テキ7だけが制御器が東洋電機製DB-3型になっていました。 テキ8は1935年(昭和10年)車庫で火災で焼失、残った電気部品をもとに車体を新製してテキ20になりました。またテキ10,11は1945年(昭和20年)福井空襲で焼失、廃車になりました。
完成当時これらの機関車の車体は木造でした。しかし1965年(昭和40年)以降残ったテキ6,7,9,20は車体を木造から鋼体化しています。
電気機関車とはいっても、出力からして電車に毛の生えた程度でしたので、発坂-比島にあった40パーミルの急坂はテキ6たちには厳しい条件でした。ここを牽引できるのは、せいぜい貨車2両であったので、勝山へ向かうのにはまず編成を勾配手前の発坂で半分を切り離し、勝山へ引っ張って、発坂へ戻って、残りの編成を引っ張っていき、勝山で再度編成を組みなおして大野まで行ったようです。このように数は多かったのですが、牽引力が弱かったため、貨物の輸送量が次第に増えていった1935年(昭和10年)国鉄から、先に述べた日本初の電気機関車であるEC40型を2両譲り受け、テキ511,512とします。又、庄川水力からも電気機関車を譲り受け,テキ501とします。
京都電燈は事業を拡大し、福井から京都まで送電線を延ばし、当時はやりだった長距離送電を始めます。
福井へ行ってきました (その3 永平寺口駅改修)
帰りに永平寺口駅で降りました。
実は改築されたのを知らずに、電車からみて、あわてて降りました。
改築前の駅舎です。
これは京福電鉄時代の写真で当時は東古市といっていました。
京福電鉄時代の東古市駅のホームです。
右側が旧駅舎で当時永平寺線の乗り場(1番)として使われていました。
信号機向こうの真ん中のホームが勝山本線(現勝山永平寺線)として(2)(3番)として使われていました。永平寺線が廃止されたあと 1番線は永平寺口発に使われています。手前左端の屋根あたりに、永平寺行きのバス乗り場がありました。
カメラを持っているのは私。位置は2,3番線のホームです。その奥に使われなくなったホームがありました。これはかつて4,5番線のホームで、ここから1969年(昭和44年)まで丸岡、金津(現JR芦原温泉)へ永平寺線が延びていました。
旧4,5番ホームから2,3番ホームを見たところ。
永平寺口駅は永平寺への玄関口であると同時に、越前本線と永平寺線の結節点でもありました。旅客や貨物が行きかう場所でもあったわけです。
ただ永平寺線が廃止され、えちぜん鉄道に変わりましたが、しばらく駅舎、線路やホームの配置は以前と同じままでしたので、使いづらいのではないか、ホームの位置をずらすなど変更しないのかと思いました。
<今の永平寺口駅>
ホームの配置は改築前と変りません。しかし駅の位置はホームをはさみ、以前と反対側に新築されました。駅前広場もできました。
4,5番ホーム、その他の建築物は撤去され、新しい永平寺口駅舎が完成しました。
駅奥にバス、タクシー乗り場が作られました。また
駅横にあって、おばけ屋敷のようだった「旧 京都電燈古市変電所」も立派に改修され文化遺産として残されています。
「京都電燈」とは何?と思われる方もいるかもしれません。名の通り京都にあった会社です。京都の電力会社で、福井に支社がありました。
また最初に掲載した旧駅舎も
国の登録有形文化財に指定され、地域交流館として活用されています。
都会では、再開発のため古い建築物が取り壊され、新しいものに置き換わられています。しかし、えちぜん鉄道沿線では、古いものを残しつつ新しいものを作っていく工夫がされています。勝山駅に保存されているテキ6もその1つの感じがしました。
福井のシリーズは以上でおしまいですが、せっかく各所に文化遺産が保存されています。ので折をみて 番外編 えちぜん鉄道の生い立ち を編集します。
福井へ行ってきました (その2 勝山の散策)
次の日はえち鉄(えちぜん鉄道)で勝山まで行きました。
福井鉄道の200型が動いていました。
7000型で勝山まで乗車です。
勝山駅は大正時代の電気機関車 テキ6が保存されています(私もその保存会の1員です)がこれは、後日触れることにします。
自転車を借りて、勝山の町を散策します。
今回の目的は勝山で作られる清酒一本儀の
「一本義グラス」を求めることでした。これはネットでは販売されていません。
お酒を入れて少し振ると真ん中の部分がくびれているので、香りがグラスの中でまわり、良く分かります。また、ビールを注いだときも普通のグラスに比べて泡の層ができ易く。炭酸ガスを逃がしにくいです。
以前差儀長祭りのとき、購入しましたが、割れたときのため予備を購入する目的がありました。
しかし
日祝日とあって本店も、向かいの「勝山酒舗」もお休みでした。
残念です。
町並みを散策します。
1階の軒と2階の軒をつなげる、いわゆる「うだつ」が作られていました。私は美濃市だけかと思いましたが、他の町にもあることが分かりました。
日曜日の割には静かでした。
おひるは「どうせき」さんで、越前そばをいただきました。ちゃんと「蕎麦湯」もついていました。
勝山駅の駅舎西側に「えち鉄カフェ」ができていました。電車の待ち時間、お茶を飲む人でにぎわっていました。私も「昭和ブレンド」をいただきました。えち鉄サポーターカードを見せると、50円引きだそうです。(見せるの忘れた)
(その3に続きます)