鉄道ファンと安全について考える
鉄道を趣味にする人を鉄道ファンと定義しよう。
鉄道ファンの人口は年を追うごとに増えているように思う。定義が曖昧なので、正確な統計があるわけではないが、「○○鉄」と分類されるようになってきた。分類わけができるほどふえた感じがする。
私自身鉄道ファンである、これが別に悪い趣味であるというわけではないと思う、しかしその行動しだいできまると思う。基本的に列車に乗る。列車の写真を撮るという個人的な行動が多い。また鉄道という公共交通を対象にするためにある程度マナーは必要になる。ただし集団で行動するわけではないので、マナーを守るのは個人しだいである。
鉄道写真を撮ろうとして、列車に轢かれた事故はいくつかあるが、象徴的なのが1976年(昭和51年)京阪100年記念のSL列車に小学生が轢かれて死亡した事故である。これはイベントとしてテレビでも中継され、ブームに油を注いだ。その結果大勢の人が押し寄せた。その中で大人の人だかりの足元から、線路内に写真を撮ろうとして入った小学生がSL列車に轢かれた。この事故は大問題となった、当時,運行する国鉄が責任を問われ、以後都市区間でのSL列車の運行はしなくなった。しかし国鉄に大きな責任があったのだろうか、責任の大半はブームをあおったマスコミにあったと思う。ブームがお祭り騒ぎを引き起こし、その隙をついて起こった事故のように思う。マスコミは責任が自分たちに向くのを恐れて、鉄道会社の国鉄に矛先を向けた。
こういった問題はこれ以降解決したか?私はそうは思わない。むしろ原因追求がなされぬまま、お祭りイベントは続いた。当時はSLが人気を集めたが、今はそれに加え、新幹線や特急列車、はては地下鉄までもその対象である。鉄道ファンは、鉄道会社にとって、お客様ではあるが、いつ運行を妨害するかもしれない輩と写っている。この問題は鉄道ファンが増えるとともに、増加するのではないかと思う。
鉄道ファンを長く続けてゆくなら、特にホームや、鉄道用地付近で、写真をとる人は、ぜひ鉄道とよい付き合いを保ってほしいと思う。その上でぜひ身に着けてほしいのが、信号機の読み方など、安全に対する知識である。自分はそんなつもりではないが、運行に重大な問題を引き起こすこともある。
列車運行の密度の高い日本の鉄道会社は、1つ間違えば大事故につながるので、常に運行の安全を第一に考える。鉄道会社も単なるイベントをするのではなく、列車の運行方法の保安、駅ホームでの好ましくない行動、緊急の際に使用する非常ドアコックの操作、避難の方法。また緊急停車時の措置がどのように行われるか。などを教育するなどの場を提供してほしいと思う。そうすればもう一歩鉄道に対する安全の考え方も深まるのでないかと思う。
また「鉄道アイドル」と呼ばれる人たちがいれば、その影響力を使って、「安全啓発キャンペーン」などを組んで、これら安全に対する基礎知識を伝えてほしい。
私は「○○鉄」という分類は好まないが、マナーも守らず、周囲に迷惑をかける鉄道ファンを「クズ鉄」と呼ぶことにする。それは自身が「クズ鉄」にならないように自戒しようと思う。
適当に東急線に乗りました
前回の東京編の続きです。
北千住から渋谷まで移動しましたが、どれを使ったのか思い出せません。千代田線と半蔵門線を乗り継いだか、東武線と半蔵門線を乗ったか?
とにかく渋谷駅で下車して東急線の1日乗車券を購入しました。最後にこれをなくす事になるのですが。
東横線で多摩川まで行きました。目蒲線の生残りの多摩川線と池上線に乗ってきました。
7700型です。まだ走っていました。でもインバータ化されていました。
(矢口渡駅?)
ラッシュ時3-4分、データイム6-7分間隔で走っているようでした。
1000型1500番台、かつては東横線で日比谷線に乗り入れていた電車です。
新車7000型 かっこいいです。
池上線1000型 これも東横線を長編成で走っていました。
このあたりは下町で、ほっとした感じです。
旗の台で、オーバークロスする大井町線に乗り換えます。
二子玉川で電車を降りました。ここから先は田園都市線を溝の口まで走ります。複々線化されたようで、誤乗防止のため、先頭に「大井町線」と書かれています。
写真の下がボケているので、申し訳ありません。大井町線の6000型と半蔵門線の8000型。まだ走っていました。
最後に世田谷線に1区間だけ 西太子堂まで乗りました。少しピンボケ
こうして適当に東急電車を乗ってきました。
田園都市線などは、今や東武伊勢崎線まで乗り入れ、東武の電車がやってくるようになりました。東横線もみなとみらい線や副都心線に乗り入れ、西武や東武線へ乗り入れです。
これらはまたの機会にすることにしました。
都電荒川線に乗ってきました
久しぶりに荒川線に乗ってきました。
東京都交通局 荒川線は荒川区、北区、豊島区などを結ぶ路線です。町屋駅前でメトロ千代田線、熊野前でこれも都営の日暮里・舎人ライナー、王子駅前でメトロ南北線と、JR京浜東北線、新庚申塚で都営三田線、大塚駅前でJR山手線、東池袋四丁目でメトロ有楽町線、鬼子母神前で副都心線と接続しています。
以前からそうですが、都心へ向かう路線のフィーダーとしての役割をしてきました。しかし、ラッシュでも3-4分。日中でも6-7分間隔で、しかも1両という輸送力は、都心の交通機関としては、接続する路線と比べると、小さな感じです。
それでもこの電車に乗ると、落ち着いた気持ちになれます。今回も400円の1日乗車券を買って乗りました。
主力は7000型。今では珍しくなった吊掛駆動です。
発車の合図も「チンチン」とベルを鳴らします。
7001号車はレトロカラーになっていました。
荒川車庫前で7022号車
7023号車。広告車が目立ちました。
8500型これは5両で、終わりました。
最近の電車は8800,8900型でこれが7000型を置き換えてゆくようです。しかし、都の財政が厳しいので、計画通り進むのかが問題です。
レトロ調の9000型。クリスマスの飾りつけがありました。
荒川線の現在の乗降客は1日50,000人ほどで、決して多くはありません。発足当初は90,000人ありました。足立区と都心を結ぶ日暮里・舎人ライナーが70,000人であることを考えるともう少し利用があってもいい気がします。
都電のいいところは、利用するために階段や、エレベータなどを使わなくてもいい。バリアフリーである点です。都バスの観光路線とつなぐなど、もう少し観光利用があってもいいと感じました。
金八先生のロケ地に行ってきました。
ドラマ「3年B組金八先生」の撮影場所だったところに少しだけ行ってきました。
受験のときとか、よく登場する駅です。停車するのは普通のみ、半蔵門線から乗り入れる電車はほとんど通過していきます。
浅草方面へは歩道橋を渡って回ります。ここもよく登場しました。
反対側の駅と堤防道路。東急電車が通過していきます。
金八先生に東急電車は出てきません。放送後、曳舟駅から、東京メトロ半蔵門線を通じて東急田園都市線の電車が乗り入れてくるようになりました。
堀切駅のそばにある東京未来大学。前身は桜中学校の舞台になった足立区立第二中学校(廃校になった)でした。手前の校舎に面影があります。
再び荒川の土手に戻って京成電車を望みます。
この鉄橋の下も何度か出てきます。
通学路だった土手ですが、手前を残して舗装されています。
オープニングに登場した通り。ここを牛田駅へ向かいます。
道は本当に狭い。撮影に出てくる場所はいくつかあるのですが、狭い場所にいくつもあります。通行の邪魔にならなかったか?
最初のシリーズに出てくる牛田駅のホーム。今はホームが囲ってあります。
金八先生が駆け込んだ公衆便所。牛田駅の近くです。(今は改築されています)
牛田駅のガード下、ここもよく出てきます。しかし非常に低い。
この辺で終わりにしました。足立区は愛知県に住む住民にとって、道路が狭く、家が密集したところなので驚きでした。これでは車も役に立ちません。
金八先生のロケ地は、大半が民地。遺産として残したいという人もいます。ですが、ドラマの風景では残せるもではなく、記憶の風化には耐えられません。また、年月がたつにつれてこのドラマを自体を知る人も次第に少なくなっていくのでしょう。
TBS 「3年B組金八先生」は最初のスタートは、1979年、高校2年生のときでした。私は大学受験でしたので、見る余裕はありませんでした。 オープニングの海援隊が歌う「送る言葉」は耳についていて、卒業式でも合唱した思い出があります。
私がこれを見たのは、全シリーズが終わってから。ビデオででした。
女の子の妊娠、校内暴力、いじめ、性同一障害、ドラッグなど、きわどい問題を扱うドラマだな。と言う感じで、金八先生演じる武田哲也も最初は当惑したといっています。
ある意味、武田哲也の試行錯誤と悪戦苦闘の結果がこのドラマのようにも思えます。
金八先生の名前自体、低迷していた金曜日8時の視聴率を何とかしろから来たそうで、最初からそのような目的でつくられた番組かな。と思いました。
毎回高校受験の場面で、二学期の秋から翌春までの期間でした。15歳と言う思春期を扱った題材はおもしろいと思いました。ちょうど子供から大人になりかけの自我が目覚める年です。しかし毎回お得意のお説教が入るのは同じ。でも期間が空いた第4シリーズから、職場の同僚で妻になった 天地里見(倍賞美津子)が出演しなくなったのは残念。たぶん断られたのでしょう。で死んでしまったということに。
ドラマを見ればわかりますが、妻役の倍賞美津子が出演していたら、女性の観点も加って、脚本も変わり、金八先生も悪戦苦闘は続きますが、試行錯誤が少なく、もう少し安心して見られたと思います。
(でも堀切あたりは子供が減少していて、大都会ですが、時代から取り残されたような感じがしました)
三岐鉄道について その1 三岐線
今回は三岐鉄道について記述します。
三岐鉄道は三岐線と北勢線の2路線を持っています。今回は三岐線です。
三岐鉄道は日本で最大規模の太平洋セメントが出資する鉄道です。
秩父鉄道も同様です。三井グループに属し、いわゆる近鉄系列の会社ではありません。以前は西武グループに属していました。三岐線はその関係で、電車は西武鉄道の中古車が使われています。
これは851型 西武鉄道では701型 でした。
一番新しいのが751型です。西武鉄道のときは秩父鉄道へ乗り入れていました。
このほか101系があります。カラーは黄色が基調です。
三岐線の特徴は秩父鉄道と同じく、電車も貨物も走るという点です。このため、普通であれば平日と、休日の2つがありますが。三岐線はそれができません。
三岐線のダイヤ、販売もしています。下りの始発が貨物がJR富田駅に対して、旅客は近鉄富田駅ですので、2段になります。4桁の列車番号がセメント、3桁がその他のようです。電車は通し番号のようです。ただし保々までのは3桁のようです。太線が貨物列車です。
東藤原駅に太平洋セメントに工場があり、ここからセメントと炭酸カルシウム(炭カル)を消費地へ輸送します。特にセメントは16両と長い編成です。
東藤原駅についた1503レ 16両のセメントを引いています。このほかに白ホキを使用した、炭酸カルシウム・フライアッシュの列車もあります。貨物は東藤原とJR富田を往復しています。
藤原岳で産出した炭酸カルシウムは石炭火力発電所の脱硫に使うため、三岐鉄道で輸送され、JR貨物、碧南臨海鉄道を経由して碧南火力発電所に運ばれます。ここで石炭を燃焼した際に生じるのがフライアッシュという灰の一種です。以前は産業廃棄物として捨てられていましたが、廃棄物減量のため再生利用できるように改良されました。
いまでは埋め戻し剤のほか、セメントの原料の一部として利用されるようになりました。フライアッシュは炭酸カルシウムとは逆ルートで輸送されます。常時大量の輸送が必要なため、貨物輸送で行われています。今年で25周年ということです。
炭カル・セメント 混合列車も存在します。 丹生川駅南 502レ
丹生川駅南のセメント貨物 3713レ ここだと視界が広いので、全部列車を見通せることができます。反対側から撮ると、藤原岳を入れることができます。
フライアッシュ 501レ
様々な貨物車両を見ることができます。
東武鉄道 B4型 英国スチュアート製 東京の東部博物館にもあったような気がしますが
タム8000型 過酸化水素専用です。酸化剤の触媒に用いられます。鉄だとすぐ腐食するので、純アルミニウムが使われています。
岐阜バスに乗ってきました2(+名鉄バス乗り継ぎ)
秋の行楽シーズンとなり、岐阜バスも1日乗車券が週末使える季節です。
日付は10月18日(日)毎日18日は谷汲山の命日で臨時バスが1日1本だけ運転されます。10月は日曜なので、名鉄岐阜駅にたくさんの人が並んで待っていました。(200人超える?)
電車のときと違い、忠節から岐阜大付近を通り(途中までは定期バス扱い)谷汲山まで向かいます。次々と乗車していきました。
1台では裁ききれず、続行便がきました。
2台とも立ち客がでました。満員となって出発していきました。命日は道路も渋滞するので、普段なら1時間のところが1時間半はみないと、つらいことになります。電車で参詣していた人も車に代わったことで、渋滞が促進されます。
(電車の走っていた時代がよかった)
それにしても臨時便が1日1本ということは、それだけの乗客しか見込めないことになります。谷汲山へのルートは他に、岐阜駅からモレラ岐阜まで岐阜バスでいって、樽見鉄道に乗り換え谷汲口まで乗って、谷汲口駅から揖斐川町コミュニティバスで谷汲へ行くコースがあります。 こちらのほうが渋滞も少ないでしょう。
なんだかアニメキャラが描いてあるバス。
JR岐阜駅へ移動します。ハイブリッドバスがいました。
大野バスセンターへ行くことにします。
大野バスセンター行きは、複数のルートがあり、その1つは廃止された名鉄揖斐線の代替らしく、揖斐線沿いの道路に沿って走ります。車で電車の写真を撮りに走った道路を行く、懐かしい道です。
沿道には柿畑があり、無人販売所がありました。
乗客は5,6人ほどです。
大野バスセンター 大野町役場の横にあります。名阪近鉄バスが大垣方面に接続しています。谷汲方面へでていた名阪近鉄バスは廃止されました。代わりに揖斐川町コミュニティバスが接続していますが、いったん本揖斐へでて、乗り換えなければなりません。本数が少ないので役に立たないようです。
電車が廃止されて10年、バスなどの公共交通は衰退する一方です。
またそれは岐阜市の中心部の衰退を意味するかもしれません。このバス路線は岐阜市の中心部、徹明町交差点を通ります。かつてメルサがあったところには大きなファミリーマートが入り、通りの北はドンキホーテ、ドラッグストアは郵便局となって休みはしまっています。それでもシャッター通りよりはましといったところか。
JR岐阜駅へもどり、川島松倉行きに乗ります。13:24発 この次は16:04ですのでこれに乗らなければなりません。
バスは加納地区の県道を通り、細道に入ります。バスの乗客は私1人だけ。途中
のバス停も誰もいません。ですのでバス亭には止まらず、通過するだけです。空気を運んでいます。やがて右折して細道を行きます。
国道22号線(名岐バイパス)を横切り、笠松地区に入ります。左手にピアゴ 笠松店
岐阜から一宮へ抜けるおなじみの道です。
東海北陸自動車道が見えてきます。
通称木曽川 外堤防道路を右折して川島方面へ向かいます。(内堤防は、川島町を囲む堤防のこと 川島周辺の木曽川は二重堤防になっている)
河川環境楽園に到着。ここではじめて扉が開きました。しかしだれも乗車なし。
内堤防 木曽川の本流(北派川)川島大橋を渡ります。もうすぐ終点です。
終点 川島松倉に着きました。 私以外だれも乗りませんでした。
14:10着 所要時間46分
岐阜バス川島松倉は、名鉄バス川島停留所でもあります。南側に木曽川をはさんで愛知県一宮市があります。ここは県境の停留所です。
名鉄バス亭の時刻。岐阜バスが1日7便ほどであることに対し、3倍以上の便があります。
日中でも1時間に2便 朝のみですが、江南方面のものもあります。
ここから名鉄(JR)一宮駅へは35-40分ほどです。一宮市(愛知県)方面への利用が多いことがわかります。
各務原市川島町は岐阜県ですが、周囲を文字通り木曽川に囲まれた地域です。岐阜市や各務ヶ原中心地へ向かう人は、元々少ない地域です。どちらかと言うと繊維産業の関係で隣接する一宮市浅井町や江南市とのつながりが深い地域でした。電話番号の市外局番も一宮市と同じ0586です。川島町とほかの地域との行き来は、橋を渡らなければなりません。岐阜県側とは1本の橋(川島大橋)でしたが、最近2本の橋(平成川島橋、各務原大橋)ができました。愛知県側は昭和に3本の橋((思いやり橋)小網橋、河田橋、渡橋)ができていました。平成の大合併のときも一宮市との合併を望んだ住民もいたようです。
終点手前の松倉口 3本のバス停が並びます。
川島転回場に名鉄バス 名鉄一宮駅行き(手前)がきました。奥のはここまで乗車してきた岐阜バス。(以前は薬屋の前だった。)
カラーが似ています。岐阜バス1日乗車券も使えるのはここまで。ICカードも岐阜バスはアユカというもの。ここから名鉄バスはマナカ、トイカ等の共通のICカードを使います。
内堤防 木曽川支流 南派川(河田橋(こうだばし))を渡り、岐阜県から愛知県へ向かいます (愛知県側にも外堤防があります)
一宮市大野から、島村を通ります。岐阜バスと違い、バス停から乗客が次々と乗車します。宮田本郷からの系統と合流し、また国道22号を横断します。
ここから南は10分間隔になります。
名鉄一宮駅バスターミナルに到着しました。
岐阜バスの乗車と対照的でした。
かつては名鉄バスが一宮駅から岐阜駅(新岐阜)ー高富(現 山県市)まで走っていました。路線バスの縮小に伴い廃止され、一宮と岐阜を結ぶ路線バスは、川島経由だけになりました。「そんな乗り方あんただけだよ」と言われるかもしれません。たしかに鉄道が機能していれば、路線バスの乗り継ぎは不要です。しかし、東海大地震の警戒宣言が発令されれば、鉄道は運休します。そのときこの路線が生きていれば、少なくとも15km歩いていかなくてもよくなります。 そのとき乗客は一気に増えますが、少なくとも足の悪い人はバスで運べるのではないでしょうか。並行する名鉄各務原線とどこかで接続するとか、改善策があるといいのですが。
富山の路面電車
久しぶりに富山市へいってきました。高校生以来35年ぶり。
目的はほかにありましたが、「富山ライトレール」も乗ってきました。
家からは、車で3時間半。実は高岡市まではよく行ったことがありました。神通川を渡って富山市へ行ったのは初めてです。
ライトレール終点付近にある「岩瀬カナル会館」で昼食をとりました。
白えびが有名とかで「白えび定食」を頂きました。
35年前は高岡駅前から加越能鉄道で越ノ潟まで乗車、渡し舟で対岸まで渡って新港東口という駅から今はなき富山地鉄射水線にのって、市内線に乗り入れて富山駅前まで乗車しました。
デ5000型という平凡なハイステップの電車が走っていました。
小学館「私鉄大百科」より 当時の富山地鉄 市電は環状線になっていません。
それから何年かたち、衰退する方向へ向かっていた富山の私鉄ですが、方向転換したようです。JR富山港線を第3セクターにして路面電車化。「富山ライトレール」として、駅前付近を路面化しました。富山地鉄富山市内線も、富山駅へ線路を引き込んでいます。また路線図のように途切れていた環状線も単線ですが、復活しました。やがてはライトレールと市内線の相互乗り入れも実現します。
「蓮町(はすまち)」電停からライトレールに乗車しました。
富山北口で終点です。
T100型(サントラム)
地鉄側富山駅の現在。北陸新幹線の高架下です。やがては壁の向こう側のライトレールとつながります。
市内でデ7000型を見かけました。30年前のカラーで、懐かしかったです。
富山市は、鉄道を中心とした街づくりをしようとしています。他の都市ではみられませんが、ある意味 地方都市の今後の姿であるかもしれません。日本の地方都市づくりは、クルマ中心の街づくりでした。いままではマイカーを持てる人がおおかったので、郊外にショッピングセンターをつくるなどそれでよかったのですが、今後は少子高齢化社会です。高齢者にとって、マイカーを維持することはかなりの負担になってゆきます。その点、電車やバスが走っている街は、マイカーを持たなくてもよい、交通事故や家計の負担が減るので、これはよい傾向だと思います。
富山市が成功すれば、これに倣う都市が現れるかもしれません。
ある意味、試金石な取り組みといえます。