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名鉄美濃町線の思い出:(その1、解説)

この記事は編集中です。内容が随時変わりますのでよろしく。

(写真は引用を書いたものを除き、自分が撮影したものを使います) 

私の父方の実家が岐阜市金園町(かなぞのちょう)というところにあって、お盆と正月はよく行きました。実家の前をいまはありませんが美濃町線(みのまちせん)という路面電車が走っていて、それをみるのも楽しみの1つでした。地盤が軟らかいように思われ、電車が通るたびに、実家が小さく揺れていました。

幼児の頃は写真のようなモ510、520、500,570という電車が、写真の色ではなく上はクリーム、下はダークグリーンの色分けで、1両で走っていたのを覚えています。印象が強かったのかも知れません。私の鉄道好きになった始まりのように思います。

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写真の色分けは、揖斐線の急行に移ってからのもので、通常は美濃町線には入りませんでした。ただし検査の時は別で、検査は市ノ坪にあった岐阜工場で行われたので、検査後の試運転は美濃町線で行っていたようです。この場所ははっきりと覚えていませんが、日野橋辺りだと思います。たぶんこんな感じで走っていたのでしょう。

 

これから折を見て美濃町線の記事を書いてゆこうと思います。何分たくさんなので、何回かに分けて随時書いてゆきます。

路線図は大体つぎのとおり  (図1)

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これは1986年(昭和61年)の頃のものです。徹明町から終点美濃までは25km、新関までは18km 日本一の路線長でした。

色で線が書いてあるものは以前のものであったり、その後追加されたものです。忠節からは揖斐線が延びていました。長良北町からは高富(現山県市)まで、千手堂からは鏡島まで、郊外線が延びていました。揖斐線は専用鉄道でしたが、他の線は美濃町線と同じ、路面電車でした。このように岐阜市外と周辺の町村を電車が結んでいました。ただし、揖斐線を除き昭和40年までに廃止されました。美濃町線は、まだ当時かなりの輸送需要があったので、バス化は困難でした。ただし美濃町線は、このような市内線の延長線だったため、市内線ぬきではかたれません。もう廃止されて10年以上たち、知らない人もいると思うので、この路線図を元に説明してゆきます.

 

1.私が見た前の美濃町線。(調べ物の結果)

 美濃町線は1911年(明治44年)2月11日、美濃電気軌道によって神田町(柳ヶ瀬)-上有知(美濃)間が開業しました。同時に岐阜駅前ー今小町間が開業しました。これが美濃電の初の路線です。現在は美濃市ですが、当時は美濃町だったので、最後までその呼称でした。美濃電は、当時 才賀藤吉が経営する才賀電気商会の手によって建設されました。才賀は全国の各地の有力者に、電気鉄道建設を働きかけ、路線免許の取得、路線建設、設備維持のノウハウを持っていたので、各地に路線を建設して行きました。そして、経営が軌道に乗るまで社長の座で指揮を取り、安定すると、社長を降りて、次の電鉄の敷設を行うといったサイクルを行っていたようです。

 

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図2 開業時の移転時の起点

美濃町線の起点は国道248号線と157号線の結節点である徹明町でしたが、先の文にもあるように最初は柳ヶ瀬でした。この話は亡父から聞きました。

(現在の住所は両方ともに神田町です)柳ヶ瀬は、岐阜一の繁華街で図1の青の部分、これを拡大すると図2になります。このように柳ヶ瀬と、美濃を結んでいました。柳ヶ瀬から、248号線までの道が非常に狭い道路です。ここを電車が通っていたなど、現代ではとても考えられません。しかし、20世紀の始めは、日本の交通の主役は、馬車、大八車、自転車等のいまでいう軽車両だったので、十分だったのでしょう。ただし、車庫は梅林近くにあり、岐阜市内線と共有していたので、柳ヶ瀬と本線をと本線をつながなくてはなりません。物の本によるとかなり急カーブを描き、いったん今小町行きのレールにつないで、わたり線で、駅前行きにつなげていたようです。

この道は親戚の家から、梅林公園に行くときによく通りました。細い道です。

しかし、自動車が登場して、また電車も大型化するにつれて、次第に狭くなってゆきます。電車の利用客はこの方がよかったのですが、沿線住民からは疎まれて行きます。

 

1950年(昭和25年)に美濃町線の起点が今の徹明町に移されました。細道の線路は外され、広い道路に徹明町から梅林までの区間が新たに敷設され、この部分は複線になり、岐阜市内線と平行に接続されました。図1のように線路が配置されました。

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複線部を走る 北一色までのモ500型(北総レール倶楽部より)

モ500型は1920年(大正10年)走行機器を イギリスのEE(English Electric)社

 から輸入して、国産の車体に取り付けたもの 最初の形式はDB(Decker Bogie)500 としました。同様の構造の電車がモ510、モ520です。市内線比べ、大きな電車を必要としました。(これらの電車は床が高かったため、乗車すると沿線の家の中まで見えたそうで苦情を言われたそうです)

 

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同じくモ520型(北総レール倶楽部より) ともに美濃電時代に作られました。  道路が舗装されています。モ570以降は名鉄以降に作られた電車です。

 1968年 510,520型は冒頭のように赤白のカラーに塗り直され、揖斐線の直通急行に使用され、美濃町線を離れていきました。穴埋めとして580, 590型が移ってきました。

 

 徹明町開通当初は岐阜駅より、徹明町から出ていた鏡島線と直通運転をするつもりだったようです。じっさい電車も共通運用で、鏡島線と直通運転しましたが、わずかの期間行っただけでした。

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写真は1986年の徹明町交差点です。市内本線が廃線になるため、さよなら電車551号車が写っています。(この電車は廃止された、北陸鉄道金沢市内線から来ました。12mぐらいの小型ボギー車です。金沢からはいわゆる4輪単車を除くほとんどの電車が岐阜に来ました。)

左の岐阜薬局の線路が美濃町線につながっていました。

このとき、新岐阜方面の線と接続出るとさらによかったのですが、当時は徹明町からの乗客が多く、また市内線の本数も多く、さらに地形上渡り線を敷くのが難しかったので、止めました。

 後にこれが美濃町線のアキレス腱になります。

 

 

市内電車には乗り降りする停留所(電停)だけあればいいです。しかし、美濃町線路面電車と郊外線(鉄道線)の両方を併せ持つ面がありました。

開業当事は鉄道ブームで、どこも鉄道路線を念願していました。そこへ電車システムが登場します。主に都会と郊外を簡単に鉄道で結ぶことが、明治時代から大正時代に可能になりました。鉄道と対等に比較できるものはなかったので、(自動車は登場しますが、砂利道では短距離の輸送でしかなかった)鉄道の天下でした。

 これを理由に、美濃町線は市街地は路面、郊外地は専用の線路を敷き、思うがままに路線を敷いて行きました。美濃町線が路面だったり、専用線だったりするのはこのためです、需要のあるところに、しいて行った形が、その線です。ただし砂利道だったので、電車が走るたび、郊外は砂塵が舞いました。

駅舎?

 昭和30年代まで、貨物輸送も行っていました。この関係で、有人の駅事務所がありました。 私が知っているだけで 徹明町、梅林、北一色、下芥見、白金(競輪場は後年運転指令所はありましたが、駅事務は行っていませんでした)新関、美濃駅。新関、美濃駅を除き、駅事務所は道路際にありました。ただし田神、新岐阜各務原線ですので(今も現存するため)除外します。柳ヶ瀬にもあったと思いますが、確認できませんでした。あるいは、梅林駅から駅務員が乗り込んできて、終点で、出改札を行っていたかもしれません。北一色に駅事務所があったのは、戦後、徹明町から北一色までの区間運転があり、ここで折り返してゆく設備があったからです。ただし、3叉路の交差点だったことから、クルマが増えてくると、障害になったので、次の野一色に新たに折り返し設備を作ってここで折り返しました。市街地が次第に拡大してゆきましたので、区間運転も伸びて行きます。

 

通票(スタフ)について

美濃町線はほとんどの区間で、単線でした。信号がありませんでしたので、単線区間

通票による閉塞を行っていました。

徹明町 =金園町9丁目- 梅林■  競輪場前-▲北一色-野一色-● 琴塚- 日野橋 ■日野- 下芥見▲上芥見-白金●

        新岐阜 = 田神■市ノ坪●┛ 

小屋名-赤土坂 -■新田 - 新関▲ -神光寺● -美濃

                 ┗●関

 

電車は、列車交換のある駅まで、その区間を走ることのできるスタフを持って走り、交換駅で自分の区間のスタフを渡し、その代わりに次の駅までのスタフを受け取って走ってゆきました。競輪場は少し複雑で、後で述べることにします。新関ー美濃間が廃止された後、下芥見まで自動化され、この区間の通票閉塞は廃止されましたが、そのあと5年後に全線が廃止されました。

 1970年台に入ると、美濃、関から岐阜駅方面の需要が増えました。直接岐阜駅へ行くことができない美濃町線はバスに乗客を奪われ、苦境にたたされました。名鉄新岐阜駅横のあった車庫を市ノ坪に移し、新にしいた引込み線と、各務原線へつなぐ接続線を引いて、競輪場から各務原線へつないで、新岐阜へ乗り入れしました。この線を田神線と呼びましたが、美濃町線の一部です。美濃町線は600V 各務原線は 1500Vでしたので、両方の線が走られる電車が必用でした。この電車を複電圧車と呼びます。複電圧車は過去にも存在しました。このとき作られたのが、600型です。

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写真は野一色駅での600型です。細長の車体に抵抗器が屋根まで並んでいます。1970年代後半は減便され、新岐阜、徹明町から美濃まで60分おきに交互に出ていて、その間に野一色までの区間運転が交互にありました。野一色で美濃行きに接続することで、美濃までは30分間隔のダイヤを維持されました。

 

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このころは、写真のようなカラーの電車も残っていました。これは徹明町です。

580型はその後消えてしまいました。

 

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登場間もない870型 札幌市からやってきたもの。連接車。ずいぶん大型な電車でした。区間運転もその後日野に、女子大学ができたので、日野橋まで延長されました。また運転間隔も、60分から30分、さらに15分間隔と短くなっていきました。交換設備も増えていきました。

 ただし、新関から美濃までの乗客は減少して行きました。1980年代からは、データイムは新関までの運転として新関から美濃までは60分間間隔で、ワンマン運転になりました。これに対し、新関までは15分間隔に増便されました。それでも乗客の減少は続き、1999年(平成9年)3月に新関-美濃間が廃線になりました。

 名鉄はその代償として、新関から長良川鉄道 関市駅まで延伸し新に関駅を設け接続の便宜を図ります。また、電車の冷房化、自動閉塞の導入、新車800型を作ります。これで残存線区は残るように見えましたが、方針を転換。2005年(平成17年)3月末で、岐阜市内線揖斐線と同時に全線を廃止しました。 部分廃止後、わずか6年後のことでした。比較的新しい電車は福井鉄道などの当時名鉄系列の会社に引き取られてゆきました。

 ただし美濃駅は保存されることになり、美濃町線を走っていた電車と往時の姿をとどめています。