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東海道本線の名古屋付近の貨物列車

あまり意識しませんでしたが、稲沢にはJR貨物の稲沢運転区があり、中部の中心拠点です。ここから名古屋まで通称 稲沢貨物線(実際は東海道本線)が併走していて、複々線となっています。ここを通る貨物列車が様々であります。

 

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EF210が牽くコンテナ列車です。

 

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DD51重連の石油貨物、東日本大震災のとき 石油を届ける大任を果たしました。

DD51は今後は全検は行わず、期限切れのものから廃車するそうです。

塩浜から関西線経由で輸送するもの。唯一の定期列車だそうです。

 

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稲沢から名古屋を経て中央線を南松本まで運びます。勾配がきついので、山岳用EF64 1000番台の重連です。

 

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美濃赤坂から石灰石を運ぶホッパー貨物です。

 

(移植)えちぜん鉄道 勝山左儀長祭り (2013-0306)

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「勝山左儀長祭りにあわせてテキ6を動かす」との知らせに、2/24勝山行きを決意。行きました。
福井には9時半過ぎに到着 乗車した9:56発勝山行き955K列車にはなんとMc2101型の2両が充てられていました。ラッキーです。

勝山についたら早速写真を撮りました。

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Mc2111+Mc2116 勝山駅です。

 

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この日は新車Mc7000も勝山永平寺線の運用についていました。

扉にマークが描かれています。

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左儀長祭りは、一本儀の酒蔵祭りに行ってきました。
毎年左儀長祭りに合わせて開かれます。

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九頭竜川を渡ったとき非常に冷たい風が吹いていました。

注)左儀長祭りに勝山に行くときは、2月ですので除雪はしてあるものの、路面は濡れていて所々に水溜りがあります。足の雨対策と、かさは必要品です。

 

 

 

 

 

 

名鉄美濃町線の思い出:編集中(その2、新関-美濃)

新関ー美濃間は1999年(平成9年)3月末に、最初に廃止された区間です。以前は徹明町や新岐阜から通しで運転されていましたが、お客が減ったのでしょう。590型が日中1時間おきに走っていました。しかし、朝晩は通しで走っていました。廃止の噂を聞いたので、一度この区間を撮影しようと思いました。

 (このころはフィルムでしたので、写真をスキャナしたものです)

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朝の日野橋です。直通の美濃行きがとまっています。ここまで続行運転できました。

続行運転とは1つの閉塞区間に2両以上の電車が続いて走ることをいいます。

先頭の電車が黄色の標識を掲げて走ります。通票は、最後の電車が持ちます。自動閉塞ではないので、信号機はありません。左のスクーターで乗ってきました。

1度か、数回か撮影した記憶があります。

 

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新関駅をでた美濃行き。日中はワンマン運転でした。県道の真中を走りますが、途中で、左端に線路が移ります。このころはまだ冷房なしでした。

 

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まもなく下有知です。

下有知(しもうち)

この区間で唯一道路の端にありました。

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美濃行きの始発です。折り返して徹明町へいったのでしょう。改装前のモ870型です。冷房もなしです。早朝なので、県道にはまだ車がほとんどいません。

 

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新岐阜行き。どうやら続行運転のようです。

 

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上り徹明町行きと、新岐阜行きが続行運転やってきたようです。のぼりの始発電車は、前日に美濃駅まで回送された場合が、多かったようです。

この880型電車は冷房化されていましたが、ラインデリアという長い扇風機のみのものも存在しました。

 

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写真の880はまだ冷房がついていなくて、代わりに風鈴がついている「風鈴電車」でした。窓が開いています。この辺りから県道から外れてゆきます。

 

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続行運転の続きです。次の神光寺の北です。

 

神光寺(神光寺)

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交換設備があり、朝は列車交換がありました。

昼間は1両だけだったので、素通りです。

画面の右横に中学校がありました。学生が可愛らしいかった。写真も撮った覚えがありますが、見当たりません

出てきたら再掲します。

 

松森(まつもり)

松森の写真はありません。代わりに松森へ行く電車の写真を載せます。

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神光寺を出た電車は県道を横切り、反対側へ出て松森、美濃を目指します。

 

美濃(みの)

終点美濃駅。開業時は上有知(こうづち)駅でした。2回移転後、現在地に移りました。

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岐阜バスのときの写真です。現役の写真もあったと思いましたが、見当たりません。

600型も最初は白帯を巻いていました。

名鉄美濃町線の思い出:(その1、解説)

この記事は編集中です。内容が随時変わりますのでよろしく。

(写真は引用を書いたものを除き、自分が撮影したものを使います) 

私の父方の実家が岐阜市金園町(かなぞのちょう)というところにあって、お盆と正月はよく行きました。実家の前をいまはありませんが美濃町線(みのまちせん)という路面電車が走っていて、それをみるのも楽しみの1つでした。地盤が軟らかいように思われ、電車が通るたびに、実家が小さく揺れていました。

幼児の頃は写真のようなモ510、520、500,570という電車が、写真の色ではなく上はクリーム、下はダークグリーンの色分けで、1両で走っていたのを覚えています。印象が強かったのかも知れません。私の鉄道好きになった始まりのように思います。

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写真の色分けは、揖斐線の急行に移ってからのもので、通常は美濃町線には入りませんでした。ただし検査の時は別で、検査は市ノ坪にあった岐阜工場で行われたので、検査後の試運転は美濃町線で行っていたようです。この場所ははっきりと覚えていませんが、日野橋辺りだと思います。たぶんこんな感じで走っていたのでしょう。

 

これから折を見て美濃町線の記事を書いてゆこうと思います。何分たくさんなので、何回かに分けて随時書いてゆきます。

路線図は大体つぎのとおり  (図1)

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これは1986年(昭和61年)の頃のものです。徹明町から終点美濃までは25km、新関までは18km 日本一の路線長でした。

色で線が書いてあるものは以前のものであったり、その後追加されたものです。忠節からは揖斐線が延びていました。長良北町からは高富(現山県市)まで、千手堂からは鏡島まで、郊外線が延びていました。揖斐線は専用鉄道でしたが、他の線は美濃町線と同じ、路面電車でした。このように岐阜市外と周辺の町村を電車が結んでいました。ただし、揖斐線を除き昭和40年までに廃止されました。美濃町線は、まだ当時かなりの輸送需要があったので、バス化は困難でした。ただし美濃町線は、このような市内線の延長線だったため、市内線ぬきではかたれません。もう廃止されて10年以上たち、知らない人もいると思うので、この路線図を元に説明してゆきます.

 

1.私が見た前の美濃町線。(調べ物の結果)

 美濃町線は1911年(明治44年)2月11日、美濃電気軌道によって神田町(柳ヶ瀬)-上有知(美濃)間が開業しました。同時に岐阜駅前ー今小町間が開業しました。これが美濃電の初の路線です。現在は美濃市ですが、当時は美濃町だったので、最後までその呼称でした。美濃電は、当時 才賀藤吉が経営する才賀電気商会の手によって建設されました。才賀は全国の各地の有力者に、電気鉄道建設を働きかけ、路線免許の取得、路線建設、設備維持のノウハウを持っていたので、各地に路線を建設して行きました。そして、経営が軌道に乗るまで社長の座で指揮を取り、安定すると、社長を降りて、次の電鉄の敷設を行うといったサイクルを行っていたようです。

 

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図2 開業時の移転時の起点

美濃町線の起点は国道248号線と157号線の結節点である徹明町でしたが、先の文にもあるように最初は柳ヶ瀬でした。

(現在の住所は両方ともに神田町です)柳ヶ瀬は、岐阜一の繁華街で図1の青の部分、これを拡大すると図2になります。このように柳ヶ瀬と、美濃を結んでいました。柳ヶ瀬から、248号線までの道が非常に狭い道路です。ここを電車が通っていたなど、現代ではとても考えられません。しかし、20世紀の始めは、日本の交通の主役は、馬車、大八車、自転車等のいまでいう軽車両だったので、十分だったのでしょう。ただし、車庫は梅林近くにあり、岐阜市内線と共有していたので、柳ヶ瀬と本線をと本線をつながなくてはなりません。物の本によるとかなり急カーブを描き、いったん今小町行きのレールにつないで、わたり線で、駅前行きにつなげていたようです。

この道は親戚の家から、梅林公園に行くときによく通りました。細い道です。

しかし、自動車が登場して、また電車も大型化するにつれて、次第に狭くなってゆきます。電車の利用客はこの方がよかったのですが、沿線住民からは疎まれて行きます。

 

1950年(昭和25年)に美濃町線の起点が今の徹明町に移されました。細道の線路は外され、広い道路に徹明町から梅林までの区間が新たに敷設され、この部分は複線になり、岐阜市内線と平行に接続されました。図1のように線路が配置されました。

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複線部を走る 北一色までのモ500型(北総レール倶楽部より)

モ500型は1920年(大正10年)走行機器を イギリスのEE(English Electric)社

 から輸入して、国産の車体に取り付けたもの 最初の形式はDB(Decker Bogie)500 としました。同様の構造の電車がモ510、モ520です。市内線比べ、大きな電車を必要としました。

 

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同じくモ520型(北総レール倶楽部より) ともに美濃電時代に作られました。  道路が舗装されています。モ570以降は名鉄以降に作られた電車です。

 510,520型は冒頭のように赤白のカラーに塗り直され、揖斐線の直通急行に使用され、美濃町線を離れていきました。穴埋めとして580, 590型が移ってきました。

 

 徹明町開通当初は岐阜駅より、徹明町から出ていた鏡島線と直通運転をするつもりだったようです。じっさい電車も共通運用で、鏡島線と直通運転しましたが、わずかの期間行っただけでした。

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写真は1986年の徹明町交差点です。市内本線が廃線になるため、さよなら電車551号車が写っています。(この電車は廃止された、北陸鉄道金沢市内線から来ました。12mぐらいの小型ボギー車です。金沢からはいわゆる4輪単車を除くほとんどの電車が岐阜に来ました。)

左の岐阜薬局の線路が美濃町線につながっていました。

このとき、新岐阜方面の線と接続出るとさらによかったのですが、当時は徹明町からの乗客が多く、また市内線の本数も多く、さらに地形上渡り線を敷くのが難しかったので、止めました。

 後にこれが美濃町線のアキレス腱になります。

 

 

市内電車には乗り降りする停留所(電停)だけあればいいです。しかし、美濃町線路面電車と郊外線(鉄道線)の両方を併せ持つ面がありました。

開業当事は鉄道ブームで、どこも鉄道路線を念願していました。そこへ電車システムが登場します。主に都会と郊外を簡単に鉄道で結ぶことが、明治時代から大正時代に可能になりました。鉄道と対等に比較できるものはなかったので、(自動車は登場しますが、砂利道では短距離の輸送でしかなかった)鉄道の天下でした。

 これを理由に、美濃町線は市街地は路面、郊外地は専用の線路を敷き、思うがままに路線を敷いて行きました。美濃町線が路面だったり、専用線だったりするのはこのためです、需要のあるところに、しいて行った形が、その線です。ただし砂利道だったので、電車が走るたび、郊外は砂塵が舞いました。

駅舎?

 昭和30年代まで、貨物輸送も行っていました。この関係で、有人の駅事務所がありました。 私が知っているだけで 徹明町、梅林、北一色、下芥見、白金(競輪場は後年運転指令所はありましたが、駅事務は行っていませんでした)新関、美濃駅。新関、美濃駅を除き、駅事務所は道路際にありました。ただし田神、新岐阜各務原線ですので(今も現存するため)除外します。柳ヶ瀬にもあったと思いますが、確認できませんでした。あるいは、梅林駅から駅務員が乗り込んできて、終点で、出改札を行っていたかもしれません。北一色に駅事務所があったのは、戦後、徹明町から北一色までの区間運転があり、ここで折り返してゆく設備があったからです。ただし、3叉路の交差点だったことから、クルマが増えてくると、障害になったので、次の野一色に新たに折り返し設備を作ってここで折り返しました。市街地が次第に拡大してゆきましたので、区間運転も伸びて行きます。

 

通票(スタフ)について

美濃町線はほとんどの区間で、単線でした。信号がありませんでしたので、単線区間

通票による閉塞を行っていました。

徹明町 =金園町9丁目- 梅林■  競輪場前-▲北一色-野一色-● 琴塚- 日野橋 ■日野- 下芥見▲上芥見-白金●

        新岐阜 = 田神■市ノ坪●┛ 

小屋名-赤土坂 -■新田 - 新関▲ -神光寺● -美濃

                 ┗●関

 

電車は、列車交換のある駅まで、その区間を走ることのできるスタフを持って走り、交換駅で自分の区間のスタフを渡し、その代わりに次の駅までのスタフを受け取って走ってゆきました。競輪場は少し複雑で、後で述べることにします。新関ー美濃間が廃止された後、下芥見まで自動化され、この区間の通票閉塞は廃止されましたが、そのあと5年後に全線が廃止されました。

 1970年台に入ると、美濃、関から岐阜駅方面の需要が増えました。直接岐阜駅へ行くことができない美濃町線はバスに乗客を奪われ、苦境にたたされました。名鉄新岐阜駅横のあった車庫を市ノ坪に移し、新にしいた引込み線と、各務原線へつなぐ接続線を引いて、競輪場から各務原線へつないで、新岐阜へ乗り入れしました。この線を田神線と呼びましたが、美濃町線の一部です。美濃町線は600V 各務原線は 1500Vでしたので、両方の線が走られる電車が必用でした。この電車を複電圧車と呼びます。複電圧車は過去にも存在しました。このとき作られたのが、600型です。

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写真は野一色駅での600型です。細長の車体に抵抗器が屋根まで並んでいます。1970年代後半は新岐阜、徹明町から美濃まで60分おきに交互に出ていて、その間に野一色までの区間運転が交互にありました。野一色で美濃行きに接続することで、野一色までは30分間隔のダイヤでした。その先は60分間隔でした。

 

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このころは、写真のようなカラーの電車も残っていました。これは徹明町です。

580型はその後消えてしまいました。

 

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登場間もない870型 札幌市からやってきたもの。連接車。ずいぶん大型な電車でした。区間運転もその後日野に、女子大学ができたので、日野橋まで延長されました。また運転間隔も、60分から30分、さらに15分間隔と短くなっていきました。交換設備も増えていきました。

 ただし、新関から美濃までの乗客は減少して行きました。1980年代からは、データイムは新関までの運転として新関から美濃までは60分間間隔で、ワンマン運転になりました。それでも乗客の減少は続き、1999年(平成9年)3月に新関-美濃間が廃線になりました。

 名鉄はその代償として、新関から長良川鉄道 関市駅まで延伸し新に関駅を設け接続の便宜を図ります。また、電車の冷房化、自動閉塞の導入、新車800型を作ります。これで残存線区は残るように見えましたが、方針を転換。2005年(平成17年)3月末で、岐阜市内線揖斐線と同時に全線を廃止しました。 部分廃止後、わずか6年後のことでした。比較的新しい電車は福井鉄道などの当時名鉄系列の会社に引き取られてゆきました。

 ただし美濃駅は保存されることになり、美濃町線を走っていた電車と往時の姿をとどめています。

 

 

名松線に乗ってきました

(お断り)このブログの映像、文章は自由に利用して頂いてもかまいません。が映像は下手ですし、文章も我見ですので、利用したことによる損害、利益に関して、作者はいっさい関知しません。ご了承ください。 

 

2016年3月26日に名松線が復旧しました。

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<土砂災害との闘い>

今まで知っているだけで2回、土砂災害に見舞われたました。途中の家城までは平坦な地形ですが、その先は雲出川という川のがけに沿って線路が敷いてあります。土砂災害に見舞われやすい線です。

私が最初に名松線を見たのは、大学生だった頃。演習林へ行った帰り、車で側道を通りました。まだ国鉄でしたが、そのときも土砂崩れで終点の伊勢奥津駅には気動車ディーゼルカー)が取り残されていました。家城駅より先は代行バスでの運行でした。

一旦は国鉄の廃止対象路線になりましたが、存続運動と、当時は道路が狭く未整備であったため存続になりました。

その後はローカル線のご他聞にもれず、沿線が過疎化、林業が衰退して、山林が荒れるようになりました。また最近の温暖化によって豪雨が山間部を襲い、土砂災害があちこちで見られるようになりました。名松線も例外ではなく、2009年台風の土砂災害で不通になりました。特に幹線でもなく、道路も整備されていて、盲腸線だった名松線JR東海は、不通区間を廃止してバス化すると計画します。そしてまた存続運動が起こりました。国鉄時代と同じことの繰り返しでした。存続運動の結果,山林と、河川の整備を条件に名松線は、再び復旧しました。

2度?の復旧なので、あるいは奇蹟かもしれません。

三重県が10億円以上の費用をかけて、山林、河川を復旧しました。しかし、この先も土砂災害が起こらないとは限りません。名松線を残す以上、土砂災害のリスクは避けれません。

 

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今も数箇所残る土砂崩れの後です。

 みっともない画像で冒頭から申し訳ありませんが

(毎年、豪雨が起こり、土砂崩れがある以上、山林と河川の整備は鉄道が通っていようと、いないに関わらず、不可欠ではないでしょうか? 人が住んでいる以上、当然行わなければならないと思います。三重県の言い分もよく分からないです。)

 

<公共交通としての名松線

名松線は松阪から途中の家城まで25.8km、終点の伊勢奥津までが43.5km(営業キロ)  ここを約90分で走ります 表定速度は約31-33km。原付並みの速度です。              

名古屋から伊勢方面を走る特急南紀や快速みえが90分で名古屋と松阪を走ることを考えると、ずいぶんのんびりとした感じです。

 クルマ社会の今日、併走する道路が整備されているにもかかわらず。またそれほど輸送需要があるとも考えられない路線が、なぜ存続したのか一度乗車してみたくなり連休の2016年5月5日に行ってみました。

  

<休日でにぎわう名松線

行く前は休日でも、1両の気動車が行きかうローカル線だと思っていました。

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同じくキハ11が残ったローカル線の城北線もたいてい休日は1両で走っているからです。<東海交通事業 城北線 枇杷島駅>

 

 

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(JR松阪駅 名松線ホーム)ところが行ってみたら終日2両で運転されていました。名松線は常時2本の列車が運転されていますが、2本とも2両でした。しかも立ち客が出るほど。(いつも休日は2両かどうかはわかりませんが)

 

この日は、帰りに名古屋駅で見ましたが、名松線で4両あるキハ11のうち2両が検査で名古屋入りでしたので、代わりにキハ25の1000番台が2両入っていました。マニアにとっては珍しいかもしれませんが、ロングシートなので、観光には向きません。(私はあまり好まないこともあり、乗車しませんでした)

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家城駅で列車交換します。松阪から家城までが1閉塞。家城から終点伊勢奥津までが1閉塞  計2閉塞です。ですので信号機は赤と青の2灯。

 

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またここでは通票による閉塞(票券閉塞も)が行われています。10年以上前、廃止された名鉄美濃町線を思い出しました。

ただ美濃町線と違うのは、信号機とATS地上装置らしきものが線路にみえたのです。美濃町線の場合、廃止の少し前 下芥見駅までは信号機がつき自動閉塞になりましたので、この間は通票閉塞をやめました。下芥見から関駅までが通票閉塞で残りました。この区間は信号機すらありませんでした。 信号機とATSがあれば通票はいらないと思いますが。この信号機は出発信号機かもしれません。でも2閉塞区間なら出発信号機はいるのか?  あるいは私が誤解したのでしょうか?

 

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伊勢竹原駅で下車して、列車の写真を撮ることにしました。

  

 

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伊勢竹原駅舎 駅名が右から書いてあります。戦前からのものでしょうか。

 

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 雲出川沿いにある君が野ダムから雲出川へ流入する川を渡るところのキハ25の2連です。後ろが欠けてしまいました。2時間に1本では次を待つのは時間的に無理であったので、またの機会にします。

雲出川を渡る写真は、次の伊勢鎌倉駅のほうがいいかもしれません)

 

 

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車窓から見た伊勢八知駅です。木造でいい感じの駅舎です。

 

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 ところどころにお茶畑も見えます。

 

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列車は次第に雲出川沿いに山間を走っていきます。

 (車内から撮ったので、画像は悪いと思います すみません)終点の手前、少し勾配がきつくなります。

 

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終点の伊勢奥津駅です。

 

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皆さんがよく撮影されるつるに覆われたSLの給水塔。

ここから主だった観光地へ向けて、無料バスが運行され、利用客が乗り換えていきました。

この観光客が、主な利用者だったかもしれません。

 地元の人は「名松線は有名な観光地がない」という人もいます。しかし一般的な傾向として感じることは、「列車の旅=観光資源」として考える観光客がかなり存在する感じです。そうであれば沿線に有名な観光地は要りません。

沿線の昭和からの駅も、整備して文化財として残せば、利用価値がありそうです。

 

大都市圏から1-1.5時間位の位置にあるローカル線が休日になると、日帰りで旅行気分を味わう乗客が最近かなりいるように思います。同じローカル線でも名古屋市のとなり枇杷島-勝川を走る城北線は平日、休日ともに変化はありません。

これは関東、関西圏でも同じではないでしょうか、(関東には城北線のような路線はないと思いますが)、沿線に日帰り温泉を作ったり、グルメ列車を走らせたり。需要を掘り起こそうとしています。

せっかく多額の税金をかけて復旧したのですから、これからも様々な乗客誘致を行うでしょう。

 

 <おまけ>

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松阪駅には「あら竹」という弁当屋さんがあります。 老舗の弁当屋さんで国道41号線沿いにもドライブインがあります。名物松阪牛を使った弁当が主です。掛紙に、列車の写真をつけたものや、列車の絵葉書(有料)でつけてくれます。その他変わったお弁当が並んでいます。特定の弁当を欲しければ電話予約がいいでしょう。

 ドライブインに保存してあったC11がレストアされて大井川鉄道で復活運転したのは有名な話です。

 乗車券

名松線へ休日旅行するときはJR東海が土曜休日に発売する 青空フリーパス というフリー切符だと安価に行けます。JR東海の名古屋周辺の区間がフリーです。おとな2570円? JR東海みどりの窓口指定席券売機、自動販売機(主要駅のみ)で手に入ります。特急、指定席などを利用する場合は、追加料金が必要です。ただし東海道新幹線サンライズ出雲・瀬戸は利用できません。

 

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福井へ行ってきました(えちぜん鉄道、福井鉄道相互乗り入れなど)

 

 

3月27日(日)から福井鉄道福井駅延伸と、田原町からえちぜん鉄道福井鉄道の鷲塚針原駅までの路面区間の相互乗り入れが始まりました。

 福井は祝賀ムードで、福井駅田原町駅で祝典が開かれました。

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来賓用の臨時電車 (完成したばかりのフクラム第3編成)

 新たに開業した福井駅。来賓を田原町へ運ぶ臨時電車フクラムが停車していました。緑色第3編成です。ということはフクラムは3編成の代わりに200型第3編成が廃車されることになります。地元としては残してほしいという意見ですが、果たしてどうなるのでしょう。

 

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3月26日まで使われていた福井駅前。封鎖されていました。

福井駅前で終わっていた線路が延びています。

 

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延伸部分を走る電車。27日からは30分に1本、普通電車が福井駅に乗り入れるだけです。

福井駅へ乗入る電車は大幅に減少しました。

 田原町駅へ移動します。

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構内配線は、予想どおりになっていました。

 

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踏切から見た田原駅構内

 

 

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新しい低床ホームの駅看板です

 

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駅事務所もえちぜん鉄道福井鉄道両方ありました。

 

https://www.youtube.com/edit?o=U&video_id=bZ_kwj2S-Jw

えちぜん鉄道乗入れ、鷲塚針原行きが来たので、乗車します。

 かなり遅れてきました。

 

 

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鷲塚針原に到着。引込線に駅がありました。滞留時間は56分。遅れをここで吸収するようにしてあります。乗入れ電車は1時間に1本のみ。郊外線に路面電車が乗り入れる。初の試みです。えちぜん鉄道としては、ダイヤの乱れを極力少なくしたいという思惑が働いた結果だと思います。

 

www.youtube.com

もどりは、福井大前西福井で降りました。

えち鉄の乗り入れ電車ki-boが来ました。

なぜ降りたかというと、ここでえち鉄に乗り換え「テキ6保存会」の総会に出席するためです。

 

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これは毎年 勝山の貸切電車内でひらかれ、終了後福井駅まで運転されるものです。

はじめて参加しました。

 

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えちぜん鉄道福井駅は、新幹線の高架部を利用して高架になっていました。

 

今回は日帰りで、総会参加ということもあって、乗り入れの状況を十分にみることができませんでした。しかし乗り入れ初日でしたので、乗客の流れがどのように変わるかは初日ではわかりません。福井鉄道は、それまでほとんどが福井駅前が終点だったものが、急行は駅前には入らず田原町終点に変わりました。日中田原町へ向かう急行は、以前と違い福井駅には接続しません。利便を図るには、800型を利用し、市役所ー福井駅間を走る電車を設け、接続するといいと思います。それをしないということは乗客の流れを変えようということでしょうか、今後乗客の流れがどのようにかわるか、興味深いところです。

三岐鉄道 その2 北勢線

新年明けましておめでとうございます。 今年もよろしくお願いいたします。

 

三岐鉄道 北勢線について書きます。

北勢線三岐鉄道が引き受けたナローゲージ(762mm)の鉄道です。最初は員弁川の砂利を桑名まで運ぶ目的でした。員弁街道沿いに敷設されたために旅客も好調でした。終点の阿下喜は、藤原岳に近く、セメント工場を建てる際に、延伸して北勢線で輸送する検討もされたようですが、輸送力が小さいことがわかり、現在の三岐線が敷かれたそうです。その後の生い立ちは四日市の内部、八王子線と同じです。

このブログの最初に書いた項のモニ220型のから話をはじめようと思います。

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現在は現役を退き、阿下喜駅の横に復元保存されています。

北勢鉄道が電化の際に、新調した電車です。荷物室つき。これに付随車や貨車を連結して走っていました。終点につくと、機関車と同じく、機回し線で反対側の先頭につけました。リベットで外板が止めてあるのが戦前製、溶接止めが戦後製です。(展示車は戦前製)この電車が北勢線の主力で、1970年代まで付随車を牽いていました。のんびりしたものです。

 

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阿下喜駅に復活したターンテーブル。この位置にあったのではなく、本線を挟んで反対側にありました。モニ220もこれを使って向きを変えていました。(でも電車なので向きを変える必要があったのか)

 

戦時中に三重交通に合併されます。戦後はダークグリーンとクリームの2色塗りになっています。 

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復刻された三重交通カラーです。277号車は近鉄のときに作られた電車ですが、残りは三重交通時代 モ4400型として登場しました。カルダン駆動の3車体連接車として当時のナローの湯ノ山線に颯爽と登場しました。しかし、故障が多く湯ノ山線が改軌されてからは、動力を外され、付随車にされて、北勢線に回されて、モニ220に牽かれていました。モ270に変わった後は非連結側の運転台が復活し、現在に至ります。モ270は新しいのですが、つりかけ駆動です。

1965年以降は三重交通から近鉄に移ります。カラーも小豆色になりました。

1978年以降モ270型が投入されてからは、間接制御化と制御車の連結により、終点での機回し線が撤去され、現在の姿になりました。

 

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現在星川駅があるあたりです。

近鉄も不採算路線を多く抱えたため、北勢線から撤退する方針に転換しました。

撤退後は三岐鉄道が引き継ぐことになり、2003年4月から三岐鉄道の路線になりました。

 

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終点阿下喜駅に掲げられた看板

 

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電車も次第に黄色に変わっていきました。

 

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車庫のある北大社駅。発足時は駅でしたが、現在は信号所です。

 

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発足当時の乗車券 後年駅配置が見直されました。坂井橋駅を廃止して、西側ピアゴのところに星川駅を開設。スピードアップのため、乗降客数の少ない駅を統合するなどの変化がありました。

 

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 サービスアップのため冷房もつけられました。ナローゲージの車両は、普通の電車のように屋根上に冷房をつけるのが難しいため、近鉄時代はクーラーなしでした。クーラーは車内に取り付けることになりました。

 

こうして北勢線はスピードアップとパークアンドライドの促進、サービスの向上が図られ、毎年減少していた乗客も下げ止まりです。後は利用客の増加するといいのですが。