名鉄美濃町線の思い出、編集中(その11)競輪場ー徹明町
金園町9丁目(かなぞのちょう9丁目)
単線区間でした。9丁目電停の東側だったか、西側だったか覚えがありません。
梅林(ばいりん)
単線から複線に変わる電停でした。以前は駅事務所がありました。
金園町4丁目(かなぞのちょう4丁目)
亡父の実家の前でした、
4丁目電停東側の591号車です。1974年 当然ですが、クーラーはついていません
信号機のある交差点が、県道1号線(旧国道22号線)と交わるところ。美濃と尾張への街道の接点で、昔から交通の要所でした。
徹明町(てつめいちょう)
美濃町線の起点・終点です
1986年 長良線の廃線以降、単線化されていました。この先は交差点を市内線に真直ぐ繋がっています。
末期はこのように510型の臨時電車が、市内線に乗り入れていました。
本来なら市内線に乗り入れて新岐阜に向かえばよいのですが、カーブがきつく、できませんでした。田神線が開通後、各務原線に乗り入れて、新岐阜へ向かいます
次回は 新岐阜へ向かう方面です。
名鉄美濃町線の思い出、編集中(その8)琴塚ー野一色
琴塚を出た電車は、野一色へ向かいます。
途中神社の前を通過しました。続行運転もありました。2004年最後の春。
野一色(のいしき)
住宅地の中に駅がありました。1960年の終わりに交換設備が北一色から移転してきました。
野一色までの電車に、新関行きの電車が接続して、乗り換え、徹明町行きとして発車してゆきました。
朝は美濃行きの電車に日野橋行きの電車が続行運転して乗り換えることもありました。
その9 へ続く
名鉄美濃町線の思い出、編集中(その7)日野橋ー琴塚
日野橋(ひのばし)
いよいよ日野橋。徹明町からここまでは市内均一区間(170円)でした。
駅というか、電停というか真ん中に道路をはさんで、上り下り 併せて4本の電車が行き違いできる構造でした。しかし道路には構内踏切がありません。珍しいつくりですが、これがワンマン化が難しい最大の理由でした。
部分廃止直後の写真。徹明町からの電車はここで折り返してゆきます。ここでも新関方面に乗り換えは可能ですが、道路を渡らなければならないので、乗り換えはその2つ前の野一色で乗り換えるように案内があります。車掌が乗っていたときは横断する車の有無を、車掌が確認していました。ワンマン化に伴い、果たして安全かどうか確認しています。
車が入ろうとしています。
部分廃止直後の日野橋、日中でも590型が新関まで走っていました。新岐阜行きとなっています。この時期、田神線を市ノ坪まで走っていました。そこで接続するためです。ダイヤ改正とワンマン化の検討の時期でした。
日野橋を岐阜方面に出発します。
旧 156号線西側を行きます。後年156号線は日野橋北で大きく西側に曲がり、山をトンネルで抜いて、美濃町線を競輪場前東側でオーバークロスして、国道21号線、22号線に接続、岐阜市、大垣市、愛知県方面に行くようになりました。
この区間はよく渋滞しましたが、それも減りました。現在は県道になっています。
日野交差点 電車用の信号機はありませんでした。
道端を走ります。
もうすぐ琴塚
琴塚(ことづか)
寂しい駅でした。昔 岐阜ヘルスセンターがあったときは 最寄駅でした。
名鉄美濃町線の思い出、編集中(その6)下芥見ー岩田坂
下芥見(しもあくたみ)
もう少しで下芥見です。
朝は徹明町行きが美濃や新関からありました。
ここから始発の徹明町行きです 続行運転の開始。
朝はこのように関方面の続行運転などが見られました。
また部分廃止後、これより南は自動閉塞化されました。800型もこのころデビューしました。
岩田(いわた)
下芥見より南側で 国道156号線と平行してはしります。
岩田より北で、国道と別れ下芥見へ向かうところ
岩田坂(いわたざか)
写真を探しています。この駅より南は日野橋へ下り坂です。
その7 日野橋 へ続く