名鉄美濃町線の思い出、編集中(その4)津保川橋梁ー上芥見

津保川(つほがわ)橋梁

白金の南に、長良川に注ぐ津保川があって、そこを渡っていました。

ここを渡る電車の写真はたくさんの人が撮っているでしょう。ここから南が結構有名な撮影地でした。

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鉄橋の南側には大きな桜の木があって撮影場所になっていました。

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橋の南側にここへ注ぐ農業用水があって、ほぼ線路に沿って流れています。

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ここから南の線路が、一部併用軌道になっていたのは、皆さんご存知のところ。

 

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写真が出てので、ここに載せます。

 

上芥見(かみあくたみ)

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併用軌道の南端が上芥見です。線路と反対側に待合所がありました。ホーム側は農業用水です。

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その5へ続く

名鉄美濃町線の思い出、編集中(その3)新関ー白金

新関(しんせき)

 

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関市の中心の駅です。新岐阜からの電車は大半が折り返してゆきました。

 

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橋の上の折り返し電車

 

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美濃への部分廃止後、県道を横断して 長良川鉄道の関市駅へ乗り入れるようになりました。

 

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関(せき)

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関 駅です。1999年の部分廃止後 長良川鉄道 関市駅 西側に作られました。徒歩で乗換えができました。終点の北側に、長良川鉄道の北側の留置線があり、若干ずれて美濃町線の線が配置されていました。、以前に名鉄が乗り入れを希望したのですが、越美南線の時、国鉄が断った経緯があります。

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約5年間存在した駅でした。

岐阜方面に向けて発車します。

 

新田(しんでん)

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駅の写真はありませんが、付近を走る電車です。新関を発車して、しばらく国道248号線の脇を走っていました。

 

赤土坂(あかつちざか)

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珍しく 右側通行の交換駅でした。 架線柱にかみそりメーカーの看板が目に付きました。

 

小屋名(おやな)

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ここも駅の写真はありませんが、国道156号線付近を通る電車の写真があります。

156号線からは、この先分かれて、違う道の側道を走りますが、交差点で踏切がない変なところがありました。

 

白金(しろかね)

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交換駅です。通票を渡しています。平日朝 この駅までの区間運転がありました。

部分廃止後、この駅~北は、通票のまま残りました。

その4に続く

 

 

ブルートレインのエピソード

昔はネットなど無く、時刻表を手元において、よく会社から駅に電話で(出張の)きっぷの予約をお願いをしました。
「もしもし」「○○駅です」
「春日井です。切符の予約をお願いします。」
「列車は?」
「○月○日発 しらさぎ○号 名古屋-敦賀 ハザ2枚 つなぎ 敦賀鷹ノ巣 日本海1号 ハネ2枚 きっぷ 青森十和田ミニ周 2枚 です。」「とれます?」
(取れない場合は別ルートがあれば教えてもらえました)


――――
「大丈夫です」(いわゆる電報略号を1部使いました。)

(別に周遊券でなくても良かったのですが、めんどくさかった)

(2週間以内の出張であれば、当時まだあった周遊券を使った、経路が複数選択できるので有難かった)

 

(内容を復唱されたあと) 「よろしいでしょうか?」
「了解しました」
「お名前は」「春日井です 本日20時ごろ取りに向かいます。お願いします。」
「了解しました。」
仕事中だったせいか、自分が投げやりな感じの声。今思えば 駅員に気の毒だったよな。
寝台車に乗るのが楽しみだったら、こんな声ではなかったような。
となりで聞いていた元国鉄職員の上司が「それできっぷ買えるのか 大丈夫か」でしたが
「相手が判ればいいんじゃないですか」と回答しました。
(別に最初から判っているのではなかったのですが、駅員と会話しているうちにそうなってしまったのです.ネットはなくても予約はマルスでシステム化されていたので、電話でも済んだのでしょう)

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東海道本線の名古屋付近の貨物列車

あまり意識しませんでしたが、稲沢にはJR貨物の稲沢運転区があり、中部の中心拠点です。ここから名古屋まで通称 稲沢貨物線(実際は東海道本線)が併走していて、複々線となっています。ここを通る貨物列車が様々であります。

 

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EF210が牽くコンテナ列車です。

 

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DD51重連の石油貨物、東日本大震災のとき 石油を届ける大任を果たしました。

DD51は今後は全検は行わず、期限切れのものから廃車するそうです。

塩浜から関西線経由で輸送するもの。唯一の定期列車だそうです。

 

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稲沢から名古屋を経て中央線を南松本まで運びます。勾配がきついので、山岳用EF64 1000番台の重連です。

 

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美濃赤坂から石灰石を運ぶホッパー貨物です。

 

えちぜん鉄道 勝山左儀長祭り (2013-0306)

www.youtube.com

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「勝山左儀長祭りにあわせてテキ6を動かす」との知らせに、2/24勝山行きを決意。行きました。
福井には9時半過ぎに到着 乗車した9:56発勝山行き955K列車にはなんとMc2101型の2両が充てられていました。ラッキーです。

勝山についたら早速写真を撮りました。

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Mc2111+Mc2116 勝山駅です。

 

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この日は新車Mc7000も勝山永平寺線の運用についていました。

扉にマークが描かれています。

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左儀長祭りは、一本儀の酒蔵祭りに行ってきました。
毎年左儀長祭りに合わせて開かれます。

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九頭竜川を渡ったとき非常に冷たい風が吹いていました。

注)左儀長祭りに勝山に行くときは、2月ですので除雪はしてあるものの、路面は濡れていて所々に水溜りがあります。足の雨対策と、かさは必要品です。

 

 

 

 

 

 

名鉄美濃町線の思い出:(その2) 新関-美濃

新関ー美濃間は1999年(平成9年)3月末に、最初に廃止された区間です。以前は徹明町や新岐阜から通しで運転されていましたが、お客が減ったのでしょう。590型が日中1時間おきに走っていました。しかし、朝晩は通しで走っていました。廃止の噂を聞いたので、一度この区間を撮影しようと思いました。

 (このころはフィルムでしたので、写真をスキャナしたものです)

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朝の日野橋です。直通の美濃行きがとまっています。ここまで続行運転できました。

続行運転とは1つの閉塞区間に2両以上の電車が続いて走ることをいいます。

先頭の電車が黄色の標識を掲げて走ります。通票は、最後の電車が持ちます。自動閉塞ではないので、信号機はありません。左のスクーターで乗ってきました。

1度か、数回か撮影した記憶があります。

 

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新関駅をでた美濃行き。日中はワンマン運転でした。県道の真中を走りますが、途中で、左端に線路が移ります。このころはまだ冷房なしでした。

 

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600型2連。あまり見たことありませんでしたが。朝運転されたようです。上が後から出てくる神光寺。下が、新関駅を出たところ。

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まもなく下有知です。

下有知(しもうち)

この区間で唯一道路の端にありました。

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美濃行きの始発です。折り返して徹明町へいったのでしょう。改装前のモ870型です。冷房もなしです。早朝なので、県道にはまだ車がほとんどいません。

 

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新岐阜行き。どうやら続行運転のようです。

 

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上り徹明町行きと、新岐阜行きが続行運転やってきたようです。のぼりの始発電車は、前日に美濃駅まで回送された場合が、多かったようです。

この880型電車は冷房化されていましたが、ラインデリアという長い扇風機のみのものも存在しました。

 

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写真の880はまだ冷房がついていなくて、代わりに風鈴がついている「風鈴電車」でした。窓が開いています。この辺りから県道から外れてゆきます。

 

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続行運転の続きです。次の神光寺の北です。

 

神光寺(神光寺)

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交換設備があり、朝は列車交換がありました。

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続行運転と交換です。

 

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画面の右横に中学校がありました。学生が可愛らしいかった。

 

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 昼間の交換です。

 

松森(まつもり)

松森の写真はありません。代わりに松森へ行く電車の写真を載せます。

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神光寺を出た電車は県道を横切り、反対側へ出て松森、美濃を目指します。

 

美濃(みの)

終点美濃駅。開業時は上有知(こうづち)駅でした。2回移転後、現在地に移りました。 朝の風景。

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始業点検。前日に留置した電車が置かれていました。

 

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新岐阜や徹明町行きが、次々と発車してゆきます。

 

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先ほどの600型 2連の出発です。

 

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当時の美濃駅です。

 

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岐阜バスのときの写真です。600型も最初は白帯を巻いていました。

名鉄美濃町線の思い出:(その1、解説)

内容が随時変わりますのでよろしく。

(写真は引用を書いたものを除き、自分が撮影したものを使います) 

私の父方の実家が岐阜市金園町(かなぞのちょう)というところにあって、お盆と正月はよく行きました。実家の前をいまはありませんが美濃町線(みのまちせん)という路面電車が走っていて、それをみるのも楽しみの1つでした。地盤が軟らかいように思われ、電車が通るたびに、実家が小さく揺れていました。

幼児の頃は写真のようなモ510、520、500,570という電車が、写真の色ではなく上はクリーム、下はダークグリーンの色分けで、1両で走っていたのを覚えています。印象が強かったのかも知れません。私の鉄道好きになった始まりのように思います。

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写真の色分けは、揖斐線の急行に移ってからのもので、通常は美濃町線には入りませんでした。ただし検査の時は別で、検査は市ノ坪にあった岐阜工場で行われたので、検査後の試運転は美濃町線で行っていたようです。この場所ははっきりと覚えていませんが、日野橋辺りだと思います。たぶんこんな感じで走っていたのでしょう。

 

これから折を見て美濃町線の記事を書いてゆこうと思います。何分たくさんなので、何回かに分けて随時書いてゆきます。

路線図は大体つぎのとおり  (図1)

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これは1986年(昭和61年)の頃のものです。徹明町から終点美濃までは25km、新関までは18km 日本一の路線長でした。

色で線が書いてあるものは以前のものであったり、その後追加されたものです。忠節からは揖斐線が延びていました。長良北町からは高富(現山県市)まで、千手堂からは鏡島まで、郊外線が延びていました。揖斐線は専用鉄道でしたが、他の線は美濃町線と同じ、路面電車でした。このように岐阜市外と周辺の町村を電車が結んでいました。ただし、揖斐線を除き昭和40年までに廃止されました。美濃町線は、まだ当時かなりの輸送需要があったので、バス化は困難でした。ただし美濃町線は、このような市内線の延長線だったため、市内線ぬきではかたれません。もう廃止されて10年以上たち、知らない人もいると思うので、この路線図を元に説明してゆきます.

 

1.私が見た前の美濃町線。(調べ物の結果)

 美濃町線は1911年(明治44年)2月11日、美濃電気軌道によって神田町(柳ヶ瀬)-上有知(美濃)間が開業しました。同時に岐阜駅前ー今小町間が開業しました。これが美濃電の初の路線です。現在は美濃市ですが、当時は美濃町だったので、最後までその呼称でした。美濃電は、当時 才賀藤吉が経営する才賀電気商会の手によって建設されました。才賀は全国の各地の有力者に、電気鉄道建設を働きかけ、路線免許の取得、路線建設、設備維持のノウハウを持っていたので、各地に路線を建設して行きました。そして、経営が軌道に乗るまで社長の座で指揮を取り、安定すると、社長を降りて、次の電鉄の敷設を行うといったサイクルを行っていたようです。

 

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図2 開業時の移転時の起点

美濃町線の起点は国道248号線と157号線の結節点である徹明町でしたが、先の文にもあるように最初は柳ヶ瀬でした。この話は亡父から聞きました。

(現在の住所は両方ともに神田町です)柳ヶ瀬は、岐阜一の繁華街で図1の青の部分、これを拡大すると図2になります。このように柳ヶ瀬と、美濃を結んでいました。柳ヶ瀬から、248号線までの道が非常に狭い道路です。ここを電車が通っていたなど、現代ではとても考えられません。

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岐阜柳ヶ瀬に並ぶ美濃町線電車 (名鉄資料館ホームページから)

しかし、20世紀の始めは、日本の交通の主役は、馬車、大八車、自転車等のいまでいう軽車両だったので、十分だったのでしょう。ただし、車庫は梅林近くにあり、岐阜市内線と共有していたので、柳ヶ瀬と本線をつながなくてはなりません。物の本によるとかなり急カーブを描き、いったん今小町行きのレールにつないで、わたり線で、駅前行きにつなげていたようです。

この道は親戚の家から、梅林公園に行くときによく通りました。細い道です。

しかし、自動車が登場して、また電車も大型化するにつれて、次第に狭くなってゆきます。電車の利用客はこの方がよかったのですが、沿線住民からは疎まれて行きます。

 

1950年(昭和25年)に美濃町線の起点が今の徹明町に移されました。細道の線路は外され、広い道路に徹明町から梅林までの区間が新たに敷設され、この部分は複線になり、岐阜市内線と平行に接続されました。図1のように線路が配置されました。

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複線部を走る 北一色までのモ500型(北総レール倶楽部より)

モ500型は1920年(大正10年)走行機器を イギリスのEE(English Electric)社

 から輸入して、国産の車体に取り付けたもの 最初の形式はDB(Decker Bogie)500 としました。当時このクラスの電車は、市営以前の名古屋電気鉄道にあった位で、先進の車両でした。以後、同様の構造の電車がモ510、モ520として作られました。市内線比べ、大きな電車を必要としました。(これらの電車は床が高かったため、乗車すると沿線の家の中まで見えたそうで苦情を言われたそうです)

 

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同じくモ520型(北総レール倶楽部より) ともに美濃電時代に作られました。  道路が舗装されています。モ570以降は名鉄以降に作られた電車です。

 1968年 510,520型は冒頭のように赤白のカラーに塗り直され、揖斐線の直通急行に使用され、美濃町線を離れていきました。穴埋めとして580, 590型が移ってきました。

 

 徹明町開通当初は岐阜駅より、徹明町から出ていた鏡島線と直通運転をするつもりだったようです。じっさい電車も共通運用で、鏡島線と直通運転しましたが、わずかの期間行っただけでした。

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写真は1986年の徹明町交差点です。市内本線が廃線になるため、さよなら電車551号車が写っています。(この電車は廃止された、北陸鉄道金沢市内線から来ました。12mぐらいの小型ボギー車です。金沢からはいわゆる4輪単車を除くほとんどの電車が岐阜に来ました。)

左の岐阜薬局の線路が美濃町線につながっていました。

このとき、新岐阜方面の線と接続出るとさらによかったのですが、当時は徹明町からの乗客が多く、また市内線の本数も多く、さらに地形上渡り線を敷くのが難しかったので、止めました。

 後にこれが美濃町線のアキレス腱になります。

 

 

市内電車には乗り降りする停留所(電停)だけあればいいです。しかし、美濃町線路面電車と郊外線(鉄道線)の両方を併せ持つ面がありました。

開業当事は鉄道ブームで、どこも鉄道路線を念願していました。そこへ電車システムが登場します。主に都会と郊外を簡単に鉄道で結ぶことが、明治時代から大正時代に可能になりました。鉄道と対等に比較できるものはなかったので、(自動車は登場しますが、砂利道では短距離の輸送でしかなかった)鉄道の天下でした。

 これを理由に、美濃町線は市街地は路面、郊外地は専用の線路を敷き、思うがままに路線を敷いて行きました。美濃町線が路面だったり、専用線だったりするのはこのためです、需要のあるところに、しいて行った形が、その線です。ただし砂利道だったので、電車が走るたび、郊外は砂塵が舞いました。

駅舎?

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北一色での交換風景(保育社 日本の私鉄4 名鉄より)

 昭和30年代まで、貨物輸送も行っていました。この関係で、有人の駅事務所がありました。 私が知っているだけで 徹明町、梅林、北一色、下芥見、白金(競輪場は後年運転指令所はありましたが、駅事務は行っていませんでした)新関、美濃駅。新関、美濃駅を除き、駅事務所は道路際にありました。ただし田神、新岐阜各務原線ですので(今も現存するため)除外します。柳ヶ瀬にもあったと思いますが、確認できませんでした。あるいは、梅林駅から駅務員が乗り込んできて、終点で、出改札を行っていたかもしれません。北一色に駅事務所があったのは、戦後、徹明町から北一色までの区間運転があり、ここで折り返してゆく設備があったからです。ただし、3叉路の交差点だったことから、クルマが増えてくると、障害になったので、次の野一色に新たに折り返し設備を作ってここで折り返しました。市街地が次第に拡大してゆきましたので、区間運転も伸びて行きます。

 

通票(スタフ)について

美濃町線はほとんどの区間で、単線でした。信号がありませんでしたので、単線区間

通票による閉塞を行っていました。

徹明町 =金園町9丁目- 梅林■  競輪場前-▲北一色-野一色-● 琴塚- 日野橋 ■日野- 下芥見▲上芥見-白金●

        新岐阜 = 田神■市ノ坪●┛ 

小屋名-赤土坂 -■新田 - 新関▲ -神光寺● -美濃

                 ┗●関

 

電車は、列車交換のある駅まで、その区間を走ることのできるスタフを持って走り、交換駅で自分の区間のスタフを渡し、その代わりに次の駅までのスタフを受け取って走ってゆきました。競輪場は少し複雑で、後で述べることにします。新関ー美濃間が廃止された後、下芥見まで自動化され、この区間の通票閉塞は廃止されましたが、そのあと5年後に全線が廃止されました。

 1970年台に入ると、美濃、関から岐阜駅方面の需要が増えました。直接岐阜駅へ行くことができない美濃町線はバスに乗客を奪われ、苦境にたたされました。名鉄新岐阜駅横のあった車庫を市ノ坪に移し、新にしいた引込み線と、各務原線へつなぐ接続線を引いて、競輪場から各務原線へつないで、新岐阜へ乗り入れしました。この線を田神線と呼びましたが、美濃町線の一部です。美濃町線は600V 各務原線は 1500Vでしたので、両方の線が走られる電車が必用でした。この電車を複電圧車と呼びます。複電圧車は過去にも存在しました。このとき作られたのが、600型です。

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写真は野一色駅での600型です。細長の車体に抵抗器が屋根まで並んでいます。1970年代後半は減便され、新岐阜、徹明町から美濃まで60分おきに交互に出ていて、その間に野一色までの区間運転が交互にありました。野一色で美濃行きに接続することで、美濃までは30分間隔のダイヤを維持されました。

 

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このころは、写真のようなカラーの電車も残っていました。これは徹明町です。

580型はその後消えてしまいました。

 

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登場間もない870型 札幌市からやってきたもの。連接車。ずいぶん大型な電車でした。区間運転もその後日野に、女子大学ができたので、日野橋まで延長されました。また運転間隔も、60分から30分、さらに15分間隔と短くなっていきました。交換設備も増えていきました。

 ただし、新関から美濃までの乗客は減少して行きました。1980年代からは、データイムは新関までの運転として新関から美濃までは60分間間隔で、ワンマン運転になりました。これに対し、新関までは15分間隔に増便されました。それでも乗客の減少は続き、1999年(平成9年)3月に新関-美濃間が廃線になりました。

 名鉄はその代償として、新関から長良川鉄道 関市駅まで延伸し新に関駅を設け接続の便宜を図ります。また、電車の冷房化、自動閉塞の導入、新車800型を作ります。これで残存線区は残るように見えましたが、方針を転換。2005年(平成17年)3月末で、岐阜市内線揖斐線と同時に全線を廃止しました。 部分廃止後、わずか6年後のことでした。比較的新しい電車は福井鉄道などの当時名鉄系列の会社に引き取られてゆきました。

 ただし美濃駅は保存されることになり、美濃町線を走っていた電車と往時の姿をとどめています。

 

新岐阜から新関、美濃方面へご乗車の方はこちらへどうぞ

 http://hrksgai3.hatenadiary.jp/entry/2018/07/05/195521