都電荒川線に乗ってきました

久しぶりに荒川線に乗ってきました。

 

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東京都交通局 荒川線は荒川区、北区、豊島区などを結ぶ路線です。町屋駅前でメトロ千代田線、熊野前でこれも都営の日暮里・舎人ライナー王子駅前でメトロ南北線と、JR京浜東北線新庚申塚都営三田線大塚駅前でJR山手線、東池袋四丁目でメトロ有楽町線鬼子母神前副都心線と接続しています。

以前からそうですが、都心へ向かう路線のフィーダーとしての役割をしてきました。しかし、ラッシュでも3-4分。日中でも6-7分間隔で、しかも1両という輸送力は、都心の交通機関としては、接続する路線と比べると、小さな感じです。

 

それでもこの電車に乗ると、落ち着いた気持ちになれます。今回も400円の1日乗車券を買って乗りました。

主力は7000型。今では珍しくなった吊掛駆動です。

  

youtu.be

発車の合図も「チンチン」とベルを鳴らします。

 

www.youtube.com

7001号車はレトロカラーになっていました。

 

 

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荒川車庫前で7022号車

 

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7023号車。広告車が目立ちました。

 

 

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8500型これは5両で、終わりました。

 

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最近の電車は8800,8900型でこれが7000型を置き換えてゆくようです。しかし、都の財政が厳しいので、計画通り進むのかが問題です。

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レトロ調の9000型。クリスマスの飾りつけがありました。

荒川線の現在の乗降客は1日50,000人ほどで、決して多くはありません。発足当初は90,000人ありました。足立区と都心を結ぶ日暮里・舎人ライナーが70,000人であることを考えるともう少し利用があってもいい気がします。

都電のいいところは、利用するために階段や、エレベータなどを使わなくてもいい。バリアフリーである点です。都バスの観光路線とつなぐなど、もう少し観光利用があってもいいと感じました。

金八先生のロケ地に行ってきました。

 

ドラマ「3年B組金八先生」の撮影場所だったところに少しだけ行ってきました。

 

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東武鉄道 堀切駅で押上からの電車を降りました。

受験のときとか、よく登場する駅です。停車するのは普通のみ、半蔵門線から乗り入れる電車はほとんど通過していきます。

 

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浅草方面へは歩道橋を渡って回ります。ここもよく登場しました。

 

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反対側の駅と堤防道路。東急電車が通過していきます。

 金八先生に東急電車は出てきません。放送後、曳舟駅から、東京メトロ半蔵門線を通じて東急田園都市線の電車が乗り入れてくるようになりました。

 

 

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堀切駅のそばにある東京未来大学。前身は桜中学校の舞台になった足立区立第二中学校(廃校になった)でした。手前の校舎に面影があります。

 

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再び荒川の土手に戻って京成電車を望みます。

この鉄橋の下も何度か出てきます。

 

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通学路だった土手ですが、手前を残して舗装されています。

 

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オープニングに登場した通り。ここを牛田駅へ向かいます。

 

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道は本当に狭い。撮影に出てくる場所はいくつかあるのですが、狭い場所にいくつもあります。通行の邪魔にならなかったか?

 

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最初のシリーズに出てくる牛田駅のホーム。今はホームが囲ってあります。

 

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金八先生が駆け込んだ公衆便所。牛田駅の近くです。(今は改築されています)

 

 

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牛田駅のガード下、ここもよく出てきます。しかし非常に低い。

 

この辺で終わりにしました。足立区は愛知県に住む住民にとって、道路が狭く、家が密集したところなので驚きでした。これでは車も役に立ちません。

金八先生のロケ地は、大半が民地。遺産として残したいという人もいます。ですが、ドラマの風景では残せるもではなく、記憶の風化には耐えられません。また、年月がたつにつれてこのドラマを自体を知る人も次第に少なくなっていくのでしょう。

 

TBS  「3年B組金八先生」は最初のスタートは、1979年、高校2年生のときでした。私は大学受験でしたので、見る余裕はありませんでした。 オープニングの海援隊が歌う「送る言葉」は耳についていて、卒業式でも合唱した思い出があります。

私がこれを見たのは、全シリーズが終わってから。ビデオででした。

女の子の妊娠、校内暴力、いじめ、性同一障害、ドラッグなど、きわどい問題を扱うドラマだな。と言う感じで、金八先生演じる武田哲也も最初は当惑したといっています。

ある意味、武田哲也の試行錯誤と悪戦苦闘の結果がこのドラマのようにも思えます。

金八先生の名前自体、低迷していた金曜日8時の視聴率を何とかしろから来たそうで、最初からそのような目的でつくられた番組かな。と思いました。

 

毎回高校受験の場面で、二学期の秋から翌春までの期間でした。15歳と言う思春期を扱った題材はおもしろいと思いました。ちょうど子供から大人になりかけの自我が目覚める年です。しかし毎回お得意のお説教が入るのは同じ。でも期間が空いた第4シリーズから、職場の同僚で妻になった 天地里見(倍賞美津子)が出演しなくなったのは残念。たぶん断られたのでしょう。で死んでしまったということに。

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ドラマを見ればわかりますが、妻役の倍賞美津子が出演していたら、女性の観点も加って、脚本も変わり、金八先生も悪戦苦闘は続きますが、試行錯誤が少なく、もう少し安心して見られたと思います。

(でも堀切あたりは子供が減少していて、大都会ですが、時代から取り残されたような感じがしました)

 

 

 

 

 

 

 

 

三岐鉄道について その1 三岐線

今回は三岐鉄道について記述します。

三岐鉄道三岐線北勢線の2路線を持っています。今回は三岐線です。

三岐鉄道は日本で最大規模の太平洋セメントが出資する鉄道です。

秩父鉄道も同様です。三井グループに属し、いわゆる近鉄系列の会社ではありません。以前は西武グループに属していました。三岐線はその関係で、電車は西武鉄道の中古車が使われています。

 

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これは851型 西武鉄道では701型 でした。

 

 

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一番新しいのが751型です。西武鉄道のときは秩父鉄道へ乗り入れていました。

このほか101系があります。カラーは黄色が基調です。

 

三岐線の特徴は秩父鉄道と同じく、電車も貨物も走るという点です。このため、普通であれば平日と、休日の2つがありますが。三岐線はそれができません。

 

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 三岐線のダイヤ、販売もしています。下りの始発が貨物がJR富田駅に対して、旅客は近鉄富田駅ですので、2段になります。4桁の列車番号がセメント、3桁がその他のようです。電車は通し番号のようです。ただし保々までのは3桁のようです。太線が貨物列車です。

東藤原駅太平洋セメントに工場があり、ここからセメントと炭酸カルシウム(炭カル)を消費地へ輸送します。特にセメントは16両と長い編成です。

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東藤原駅についた1503レ 16両のセメントを引いています。このほかに白ホキを使用した、炭酸カルシウム・フライアッシュの列車もあります。貨物は東藤原とJR富田を往復しています。

  藤原岳で産出した炭酸カルシウムは石炭火力発電所の脱硫に使うため、三岐鉄道で輸送され、JR貨物、碧南臨海鉄道を経由して碧南火力発電所に運ばれます。ここで石炭を燃焼した際に生じるのがフライアッシュという灰の一種です。以前は産業廃棄物として捨てられていましたが、廃棄物減量のため再生利用できるように改良されました。

 いまでは埋め戻し剤のほか、セメントの原料の一部として利用されるようになりました。フライアッシュは炭酸カルシウムとは逆ルートで輸送されます。常時大量の輸送が必要なため、貨物輸送で行われています。今年で25周年ということです。

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 これがフライアッシュの列車、白色です。三里駅南 3714レ

 

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炭カル・セメント 混合列車も存在します。 丹生川駅南 502レ

 

 

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丹生川駅南のセメント貨物 3713レ ここだと視界が広いので、全部列車を見通せることができます。反対側から撮ると、藤原岳を入れることができます。

 

 

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フライアッシュ 501レ

 

 また丹生川駅北には貨物鉄道博物館もあります。

様々な貨物車両を見ることができます。

 

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 東武鉄道 B4型 英国スチュアート製 東京の東部博物館にもあったような気がしますが

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タム8000型 過酸化水素専用です。酸化剤の触媒に用いられます。鉄だとすぐ腐食するので、純アルミニウムが使われています。

 

以上が三岐線の紹介です。三岐線は貨物輸送を行っていることもあり、全線有人駅で、切符も昔ながら硬券が使われています。

岐阜バスに乗ってきました2(+名鉄バス乗り継ぎ)

 

 

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秋の行楽シーズンとなり、岐阜バスも1日乗車券が週末使える季節です。

日付は10月18日(日)毎日18日は谷汲山の命日で臨時バスが1日1本だけ運転されます。10月は日曜なので、名鉄岐阜駅にたくさんの人が並んで待っていました。(200人超える?)

 

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電車のときと違い、忠節から岐阜大付近を通り(途中までは定期バス扱い)谷汲山まで向かいます。次々と乗車していきました。

 

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1台では裁ききれず、続行便がきました。

2台とも立ち客がでました。満員となって出発していきました。命日は道路も渋滞するので、普段なら1時間のところが1時間半はみないと、つらいことになります。電車で参詣していた人も車に代わったことで、渋滞が促進されます。

(電車の走っていた時代がよかった)

それにしても臨時便が1日1本ということは、それだけの乗客しか見込めないことになります。谷汲山へのルートは他に、岐阜駅からモレラ岐阜まで岐阜バスでいって、樽見鉄道に乗り換え谷汲口まで乗って、谷汲口駅から揖斐川町コミュニティバスで谷汲へ行くコースがあります。 こちらのほうが渋滞も少ないでしょう。

 

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なんだかアニメキャラが描いてあるバス。

 

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JR岐阜駅へ移動します。ハイブリッドバスがいました。

 

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大野バスセンターへ行くことにします。

 

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大野バスセンター行きは、複数のルートがあり、その1つは廃止された名鉄揖斐線の代替らしく、揖斐線沿いの道路に沿って走ります。車で電車の写真を撮りに走った道路を行く、懐かしい道です。

 

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沿道には柿畑があり、無人販売所がありました。

乗客は5,6人ほどです。

 

 

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大野バスセンター 大野町役場の横にあります。名阪近鉄バスが大垣方面に接続しています。谷汲方面へでていた名阪近鉄バスは廃止されました。代わりに揖斐川町コミュニティバスが接続していますが、いったん本揖斐へでて、乗り換えなければなりません。本数が少ないので役に立たないようです。

 

電車が廃止されて10年、バスなどの公共交通は衰退する一方です。

またそれは岐阜市の中心部の衰退を意味するかもしれません。このバス路線は岐阜市の中心部、徹明町交差点を通ります。かつてメルサがあったところには大きなファミリーマートが入り、通りの北はドンキホーテ、ドラッグストアは郵便局となって休みはしまっています。それでもシャッター通りよりはましといったところか。

  

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 JR岐阜駅へもどり、川島松倉行きに乗ります。13:24発 この次は16:04ですのでこれに乗らなければなりません。

 

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バスは加納地区の県道を通り、細道に入ります。バスの乗客は私1人だけ。途中

のバス停も誰もいません。ですのでバス亭には止まらず、通過するだけです。空気を運んでいます。やがて右折して細道を行きます。

 

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国道22号線(名岐バイパス)を横切り、笠松地区に入ります。左手にピアゴ 笠松

岐阜から一宮へ抜けるおなじみの道です。

 

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東海北陸自動車道が見えてきます。

 

 

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通称木曽川 外堤防道路を右折して川島方面へ向かいます。(内堤防は、川島町を囲む堤防のこと 川島周辺の木曽川は二重堤防になっている)

 

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河川環境楽園に到着。ここではじめて扉が開きました。しかしだれも乗車なし。

 

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内堤防 木曽川の本流(北派川)川島大橋を渡ります。もうすぐ終点です。

 

 

 

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終点 川島松倉に着きました。 私以外だれも乗りませんでした。

14:10着 所要時間46分

岐阜バス島松倉は、名鉄バス川島停留所でもあります。南側に木曽川をはさんで愛知県一宮市があります。ここは県境の停留所です。

 

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名鉄バス亭の時刻。岐阜バスが1日7便ほどであることに対し、3倍以上の便があります。

日中でも1時間に2便 朝のみですが、江南方面のものもあります。

ここから名鉄(JR)一宮駅へは35-40分ほどです。一宮市(愛知県)方面への利用が多いことがわかります。

各務原市川島町は岐阜県ですが、周囲を文字通り木曽川に囲まれた地域です。岐阜市各務ヶ原中心地へ向かう人は、元々少ない地域です。どちらかと言うと繊維産業の関係で隣接する一宮市浅井町江南市とのつながりが深い地域でした。電話番号の市外局番も一宮市と同じ0586です。川島町とほかの地域との行き来は、橋を渡らなければなりません。岐阜県側とは1本の橋(川島大橋)でしたが、最近2本の橋(平成川島橋、各務原大橋)ができました。愛知県側は昭和に3本の橋((思いやり橋)小網橋、河田橋、渡橋)ができていました。平成の大合併のときも一宮市との合併を望んだ住民もいたようです。

 

 

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終点手前の松倉口 3本のバス停が並びます。

 

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川島転回場に名鉄バス 名鉄一宮駅行き(手前)がきました。奥のはここまで乗車してきた岐阜バス。(以前は薬屋の前だった。)

カラーが似ています。岐阜バス1日乗車券も使えるのはここまで。ICカード岐阜バスはアユカというもの。ここから名鉄バスはマナカ、トイカ等の共通のICカードを使います。

 

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名鉄バスに乗り換え名鉄一宮駅を目指します。

内堤防 木曽川支流 南派川(河田橋(こうだばし))を渡り、岐阜県から愛知県へ向かいます (愛知県側にも外堤防があります)

 

 

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 一宮市大野から、島村を通ります。岐阜バスと違い、バス停から乗客が次々と乗車します。宮田本郷からの系統と合流し、また国道22号を横断します。

ここから南は10分間隔になります。

 

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名鉄一宮駅バスターミナルに到着しました。

 

岐阜バスの乗車と対照的でした。

かつては名鉄バス一宮駅から岐阜駅(新岐阜)ー高富(現 山県市)まで走っていました。路線バスの縮小に伴い廃止され、一宮と岐阜を結ぶ路線バスは、川島経由だけになりました。「そんな乗り方あんただけだよ」と言われるかもしれません。たしかに鉄道が機能していれば、路線バスの乗り継ぎは不要です。しかし、東海大地震の警戒宣言が発令されれば、鉄道は運休します。そのときこの路線が生きていれば、少なくとも15km歩いていかなくてもよくなります。 そのとき乗客は一気に増えますが、少なくとも足の悪い人はバスで運べるのではないでしょうか。並行する名鉄各務原線とどこかで接続するとか、改善策があるといいのですが。

富山の路面電車

 

2015年、富山市へいってきました。高校生以来35年ぶり。

 目的はほかにありましたが、「富山ライトレール」も乗ってきました。

家からは、車で3時間半。実は高岡市まではよく行ったことがありました。神通川を渡って富山市へ行ったのは初めてです。

ライトレール終点付近にある「岩瀬カナル会館」で昼食をとりました。

 

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白えびが有名とかで「白えび定食」を頂きました。

35年前は高岡駅前から加越能鉄道で越ノ潟まで乗車、渡し舟で対岸まで渡って新港東口という駅から今はなき富山地鉄射水線にのって、市内線に乗り入れて富山駅前まで乗車しました。

デ5000型という平凡なハイステップの電車が走っていました。

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小学館「私鉄大百科」より 当時の富山地鉄 市電は環状線になっていません。

 

それから何年かたち、衰退する方向へ向かっていた富山の私鉄ですが、方向転換したようです。JR富山港線を第3セクターにして路面電車化。「富山ライトレール」として、駅前付近を路面化しました。富山地鉄富山市内線も、富山駅へ線路を引き込んでいます。また路線図のように途切れていた環状線も単線ですが、復活しました。やがてはライトレールと市内線の相互乗り入れも実現します。

 

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  「蓮町(はすまち)」電停からライトレールに乗車しました。

 

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 富山北口で終点です。

 

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富山駅へ入る地鉄9000型(セントラム

 

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  T100型(サントラム)

 

 

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地鉄富山駅の現在。北陸新幹線の高架下です。やがては壁の向こう側のライトレールとつながります。

 

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市内でデ7000型を見かけました。30年前のカラーで、懐かしかったです。

 

富山市は、鉄道を中心とした街づくりをしようとしています。他の都市ではみられませんが、ある意味 地方都市の今後の姿であるかもしれません。日本の地方都市づくりは、クルマ中心の街づくりでした。いままではマイカーを持てる人がおおかったので、郊外にショッピングセンターをつくるなどそれでよかったのですが、今後は少子高齢化社会です。高齢者にとって、マイカーを維持することはかなりの負担になってゆきます。その点、電車やバスが走っている街は、マイカーを持たなくてもよい、交通事故や家計の負担が減るので、これはよい傾向だと思います。

富山市が成功すれば、これに倣う都市が現れるかもしれません。

ある意味、試金石な取り組みといえます。

国鉄時代の富山港線 城川原車庫

最初に訪れた時の 電車 72型です。そのうち更新する予定です。

えちぜん鉄道の生い立ち (その4 えちぜん鉄道の誕生と再生)

1.えちぜん鉄道の誕生

京福電鉄福井支社は、いったん全線を廃止して、2002年(平成14年)県と沿線自治体が出資する第3セクターの会社えちぜん鉄道を作り、2003年(平成15年)資産を京福から引き継ぎました。加えて国交省からの「安全確保に関する事業改善命令」に必要な工事も実施することになりました。(ただし、収支の見込みが立たない永平寺口-永平寺間は、引き継がれず廃線になりました。)

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 永平寺へ向かっていた京福電車

 

 

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2003年(平成15年)7月19日 永平寺口-福井-西長田が部分開通しました。8月に三国港まで、10月には全線開通しました。一旦廃線になった路線が復活する、あまりない出来事でした。

越前本線は勝山永平寺線、三国線は三国芦原線と改称されました。

 

2.えちぜん鉄道の取り組み

開業に先立ち、最初に行ったのは、国土交通省に申請する運賃を京福のときより値下げしました。京福時代には「運賃が高い」と言う批判が多く寄せられたからです。

 1日乗車券も1000円から800円に値下げされました。永平寺への足がなくなったことにもあります。

 また、新たな取り組みとしては「アテンダント」の採用です。これは旅客専務車掌にあたるものです。これはえちぜん鉄道の施設が、ほとんど京福電鉄からのものでしたので、最近のバリアフリーに対応できません。施設を改修すればよいのですが、多くあるので、改修費用がかかります。その代わりソフトウェアの観点から改善することにしたようです。

 アテンダントは高齢者が多く利用する昼間の時間帯に乗務して、「乗降介助」や「乗車券販売」を行うものです。全国で始めての試みでした。開業当初は、乗客にも理解されず、アテンダントの試行錯誤が続きました。やがてその役割が理解され、また遠方からの乗客の観光案内も行うようになり、その存在はアテンダントの著書「ローカル線ガールズ」で全国に知れることになり、大成功を収めます。やがて各地でアテンダントが生まれることになります。

 アテンダントに続く試みは「えち鉄サポーター」の募集です。えち鉄の課題は開業後10年間で、経営を軌道に乗せることでした。沿線自治体の補助は10年でしたので、この間に地元の利用客(定期乗車)以外に定期外乗車を増やすことが課題でした。

 サポーターになることで、乗車券の割引が受けられたり、協賛店の割引が受けられました。協賛店を探すことでまた新たな観光スポットを見つけたり等で、沿線外の乗客のリピーターが増えてゆきます。

 えち鉄サポーターやアテンダントの努力で地元や大阪、名古屋からの観光客が増えて、リピーターも増えてゆきました。収支の面から見れば、えち鉄後は、定期外収入が定期収入を上まるようになりました。これも珍しいことです。

 (えち鉄サポーターは小冊子を持ち、大抵えち鉄や沿線の観光に精通しているので、乗車券の発券はしませんが、アテンダントの代わりにもなります。昼間に乗車しているときは気持ちよく居眠りしています。? アテンダントが乗車しない時間帯に、「にせアテンダント」として活動することになります??かな)

 

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 また当初は京福と同じ、つりかけ駆動で老朽化していた電車も、愛知環状鉄道から電車を譲り受けることになります。Mc6001、Mc6101で1両単位で走行する現在のえちぜん鉄道の主力です。転入に際し、片運転台のものは、もう片方にも運転台を取り付けました。その他ワンマン機器の取り付けの改造を名鉄住商工業(現在は解散)で実施しました。中古車ですが、カルダン駆動、空気ばね台車で最近の電車と遜色はありません。乗りごごちは良く、座っていると眠くなる電車です。また最近はJR東海から2両固定編成のMc7000を6編成作りました。(阪神車輌メンテナンス、大阪車輌工業等で実施)ただし譲り受けたのは車体と、台車くらいで走行機器は最近はやりのインバータ化、回生ブレーキを装備する。元の電車とは全く別物の電車になりました。

 「えちぜん鉄道の生い立ち」はこれで終わりにします。お疲れ様でした。

 

<参考文献>

鉄道ピクトリアル No.461  中部・北陸地方のローカル私鉄

鉄道ピクトリアル No.573    北陸本線

 

<おまけ>

えちぜん鉄道になって、乗車券のうちそれまで残っていた硬券はなくなってしまいました。しかしアテンダントさんが車内で乗車補充券を発行するようになりました。

フリーきっぷの場合は、特に必要ないのですが、記念にするにはちょうどいいかもしれません。写真のように手書きです。(最近の補充券はプリンタで感熱紙印字するようになって味気ないですが)

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(これは開業時のもの)

 これはあくまで仮想ですが、福井鉄道との相互乗り入れ、Mc7000型の導入などは、将来への布石ではないかと考えます。いずれも現状から見れば過剰な投資に見えます。ですが、北陸新幹線の開業を考えたときに、石川県と違い、在来線の強化は避けられません。 スピードアップや昇圧を考えたときに手を打っていたのでは遅いかもしれません。今も大事ですが、「将来をどうするか」も大事です。福井の私鉄は守りから攻めの体勢に変化しているようです。

 

 

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 <なかなか手に入らない一本義グラス 勝山駅で置いてくれないかな>

えちぜん鉄道の生い立ち(その3 京福電鉄の繁栄と衰退)

1.戦後の災禍と復興

福井市は空襲からいち早く復興しました。

しかし1948年(昭和23年)6月28日 丸岡を震源として福井大地震が起きました。

各地で断層が発生するほどの震源が浅い大規模な地震で、鉄道もほぼ全線、線路が歪む、鉄橋が落ちる。列車が脱線、転覆する被害が発生しました。空襲よりも、地震の被害のほうが大きかったくらいです。また復旧途中の翌7月、追い打ちをかけるように集中豪雨が発生し、九頭竜川が決壊、多数の罹災者が発生しました。

 度重なる被害にも屈せず、京福電鉄は復旧していきました。電車も不足したため東急電鉄から電車を購入します。1949年(昭和24年)には日立製作所製の電気機関車テキ521、テキ522が登場しました。特に越前本線の大野口への輸送に活躍します。

 

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 写真がテキ521で奥に見えるのが522です。凸型の電気機関車です。貨物輸送廃止後は専ら冬季の除雪輸送に使われ、えちぜん鉄道に引き継がれてからはテキ改めML521+522と永久連結されて使われています。

 

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また電車も新車の割り当てがありました。運輸省規格型電車といい、大まかな仕様を運輸省で決めて作られた電車です。ホデハ1001(モハ1001-1003)といい18mの電車で、類似のものが名古屋鉄道3800型です。大型の電車でしたので、旅客の多い三国線に投入されました。

昭和20年後半から30年代にかけて、京福電鉄は黄金時代を迎えます。道路はありましたが、未舗装でしたので、鉄道が主な輸送手段でした。バスやトラックは駅までの補助的な輸送手段でした。また九頭竜川の開発の輸送も担うことになります。

 

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1957年(昭和32年)から翌年にかけてこれも日本車輌で、新しい電車が登場しました。(ただし電気部品は在来車のものを流用しました。これが後に災いとなります。)

モハ241,251型で日本車輌が当時地方私鉄向けに製作した電車です。17mの電車で勝山-大野間に存在した、小さな下荒井トンネルを通ることのできる電車でした。

 

2.自動車社会の進展と京福電鉄の衰退

 1965年(昭和40年代)に入ると、バス、トラックの増加により、旅客、貨物が減少し。旅客、貨物の輸送も減り始めました。1968年(昭和43年)に丸岡線が廃線されました。1969年(昭和44年)永平寺線の金津-東古市(永平寺口)間が廃線

 1975年(昭和50年)には越前本線の勝山-京福大野間が廃線になりました。これはトラック輸送に加え、福井から大野まで国鉄越美北線が開通したことのよるものでした。 その後も貨物輸送が廃止され、マイカーが増加して行き、収支は悪化してゆきました。1980年代、京福電鉄は福井支社の路線全線を廃止する方針にします。老朽化した電車の更新は、阪神南海電鉄からの中古車で補いました。1990年、福井県からの働きかけで、運行のための補助金が交付されるようになりました。電車も新しく作られました。

 

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写真の電車がこの時作られたモハ5001型(現Mc5000)です。武庫川車輌(現 阪神車輌メンテナンス)で2両作られました。足回りは豊橋鉄道を流用。恐竜が描かれていました。

 

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福井支社も乗客誘致のため土曜休日用の1日乗車券を発売しました。当時は永平寺線と永平寺への京福バスが利用でき1000円でした。これで観光客などが少し増えました。

 

3.京福電鉄の廃止

 ところが2000年(平成12年)12月 永平寺線の電車がブレーキの故障のため停車できず、越前本線の電車と正面衝突する事故が起こりました。事故原因は空気ブレーキが1系統のみで、ブレーキロッドが折れたことでした。この事故は運行というより、ブレーキの整備ミスによるものでした。気の毒に、運転手は亡くなりました。

 翌2001年(平成13年)6月 越前本線 保田-発坂間で2度目の正面衝突事故が起きました。*1 今度は信号の見落としによるもので、当時ATS等の安全装置が設置されていないことのよるものでした。この事故で新車だったモハ5002が廃車になりました。

  国土交通省京福電鉄に対し、鉄道の運行停止、バス代行を命じ「安全確保に関する事業改善命令」が京福電鉄に出されました。これはATSの設置等で、これには60億円以上の費用が必要でした。京福電鉄としても費用の捻出については株主の了解は得られない事情がありました。ついに京福電鉄は福井支社の鉄道事業を廃止することにしました。

ところが、京福電車が走らなくなったその年の冬、福井市内は降雪のある日は、終日道路が大渋滞を起こしました。代行バスも役に立たちません。特に道路事情が悪い勝井地区は大混乱になりました。一方同じ地域を走る福井鉄道沿線では、この問題は起こりませんでした。この結果、福井の積雪時の交通問題が深刻であることがわかり、経営だけでは計れない鉄道の必要性がわかってきました。沿線では電車復活の運動が盛んになりました。

 

*1 ATSがない場合、安全のため単線ではスタフ閉塞を併用する。路線の行き違い区間ごとに、閉塞区間を設け、区間を走るときはその区間のスタフをもって走る。これをリレーのように行き違い区間で走ってきた列車の区間を受け取り、自分が走ってきた区間のスタフを相手の列車に受け渡して走ってゆく。最も原始的な方法であるが、逆にいえば該当区間のスタフがないと、絶対に走ることができない。低速な路線向きであるが、信号のみの単線の路線では、よく併用される。