えちぜん鉄道の生い立ち (その1 越前電気鉄道)

1.北陸本線の開業
えちぜん鉄道の生い立ちは、北陸本線の歴史に関わってきます。明治時代、鉄道の必要性は旅客より貨物でした。鉄道が開通することで、それまで牛や馬を使ってきた陸上輸送が飛躍的に発展しました。 
 まず日本海側の海運を東海道側に運ぶ鶴賀-長浜間の鉄道が1882年(明治15年)に開通します。130年以上も前のことで、日本で最初に鉄道が開通してから10年後のことです。福井に鉄道を引くことは、必然的に山を乗り越えていく必要がありました。鶴賀-長浜間も急坂やトンネルの掘削に時間がかかりました。鶴賀から福井への道も杉津峠を越えていかなければなりませんでした。福井まで開通したのは1896年(明治29年)のことです。翌年には石川県の小松まで開通しています。また、新たに完成した三国港から貨物輸送をするため、1913年(大正2年)金津駅から三国港まで三国線が開通します。
 鉄道が開通した地域は、物流が飛躍的に促進され産業が盛んになりました。一方鉄道から外れた地域は時代のながれから取り残され、衰退していきます。産業振興に、鉄道は不可欠な存在となり、各地で鉄道ブームが起こります。
 明治期、機織業が盛んになった勝山、大野もその1つで、鉄道が開通した福井までの鉄道建設を計画します。しかし大野盆地は標高200mであり、鉄道を敷くとなると最高40パーミルの勾配が存在することが分かり、北陸本線の最勾配が25パーミルであることを考えると、仮に開通しても運行の見通しが立たず、鉄道を敷くのは断念していました。

 

2.電車による電気鉄道の開業-越前電気鉄道
1888年明治21年アメリカのエジソンの助手だったスプレーグが「電車システム」を開発しました。
これは架線からトロリーポールで集電して多段スイッチで抵抗制御して速度を調節し、台車に吊り下げた電動機(モータ)を回転するもので、その後100年以上使われました。この「スプレーグ電車」を当時訪米中であった東京電燈の社長たちが興味を持ち、購入しました。
1890年(明治23年)の第2回内国勧業博覧会のとき会場となった上野公園で5月4日から一時試験運転を行いました。スプレーグ電車は当時、市街地の交通の主役であった馬車鉄道に比べ、速度も速く機動性があり都市交通の新しい主役と期待されます。
電車の最初の実用化は東京ではなく京都電燈が行いました。1895年(明治28年)鉄道会社として京都電気鉄道を作り、京都市内を走りました。開業時の電車は愛知県の明治村に動態保存され、今も乗車することができます。
次のアドレスを参照してください。
http://www.meijimura.com/enjoy/experience/vehicle/02.html

電車の制御器はイギリスEE(English Electric)社製 台車、モータはブリル社製のものを使用し、車体と組み立ては梅鉢鉄工場(現東急車輛)でした。電気部品は輸入して、車体と組み立てを国内メーカーで行う形は大正末期まで続くことになります。

京都電燈は1898年(明治31年)福井支社を設置します。九頭竜川で当時の先端技術である水力発電を行うのが目的でした。明治末期、幾つかの水力発電所が完成し、送電を沿岸の町へ開始しました。すでに京都で電気鉄道のノウハウを持っていた京都電燈に対し、福井県は「建設予算を回すので、福井から大野まで鉄道を敷いてほしい」と持ちかけます。電気鉄道は電力の安定した供給先であるので、京都電燈もこれに応じました。1912年(明治45年)信越本線の横川-軽井沢間が電化されSLでは困難だった40パーミルの勾配も電気運転で解決することがわかりました。この時はドイツのアルゲマイネ社+エスリンゲン社が製作したEC40型電気機関車を輸入しました。出力420kwでこれが日本初の電気機関車です。

1915年(大正3年)新福井-勝山-大野口間が越前電気鉄道によって開通しました。

このときに発電所から送られてきた交流の電気を直流に変換して電車へ送電する鉄道用の変電所ができました。その1つが、前回紹介した、京都電燈古市変電所です。

 開業時は電車、電気機関車、客車、貨車が用意されました。電車は京都電鉄の開業と同じ型のもの。電気機関車は後に出てくるテキ6型と同じ小型のものでした。電気機関車は客車、貨車を引きましたが、足りないときは電車も貨車を引いたようです。

 

 

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開業時に復元された勝山駅

開通当時、大野口から福井口までは2時間半かかっていました。それでも、それまで牛や馬で運んでいた人や荷物が、短時間で福井まで運べるようになり、旅客や貨物は次第に増えてゆきました。

このときに使用された電気機関車が現在も勝山駅に動態保存されています。

 

3.テキ6について

 

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電気機関車テキ6

 

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写真の機関車がテキ6といいます。かわいらしいもので日本で2番目の電気機関車です(写真は福井口にいたときのもの)電動貨車に似ていますが、車内のあちこちに走行機器があります。大正9年製。制御器はアメリカGE(General Electric)社製K-39型 台車、モータは65kwが2個でブリル社製 車体と組み立ては梅鉢鉄工場製でした。テキ1-5も存在したようですが、わかっているのはテキ4,5です。この後テキ11まで続きますが、テキ7だけが制御器が東洋電機製DB-3型になっていました。 テキ8は1935年(昭和10年)車庫で火災で焼失、残った電気部品をもとに車体を新製してテキ20になりました。またテキ10,11は1945年(昭和20年)福井空襲で焼失、廃車になりました。

完成当時これらの機関車の車体は木造でした。しかし1965年(昭和40年)以降残ったテキ6,7,9,20は車体を木造から鋼体化しています。

 電気機関車とはいっても、出力からして電車に毛の生えた程度でしたので、発坂-比島にあった40パーミルの急坂はテキ6たちには厳しい条件でした。ここを牽引できるのは、せいぜい貨車2両であったので、勝山へ向かうのにはまず編成を勾配手前の発坂で半分を切り離し、勝山へ引っ張って、発坂へ戻って、残りの編成を引っ張っていき、勝山で再度編成を組みなおして大野まで行ったようです。このように数は多かったのですが、牽引力が弱かったため、貨物の輸送量が次第に増えていった1935年(昭和10年国鉄から、先に述べた日本初の電気機関車であるEC40型を2両譲り受け、テキ511,512とします。又、庄川水力からも電気機関車を譲り受け,テキ501とします。

京都電燈は事業を拡大し、福井から京都まで送電線を延ばし、当時はやりだった長距離送電を始めます。